ゆうべ祖母が死んだ。ばあちゃんの思い出を書いとく

■今朝、父から電話があった。「メール見たか」と。ごめん、昨日は珍しく飲み会があって、久しぶりに会う面々だったからつい深酒してしまい、泥酔して帰ったからまだ頭がアルコール漬けなんだ、と告白するわけにもいかず「ごめんまだ見てない」と言うと、「ばあちゃんが亡くなったんだよ」とのことだった。
 母方のばあちゃんは百歳だか百一歳で、しかも寝たきりとかじゃなくてふつうに暮らしている元気な人だ。僕の実家から1キロかちょっと離れた従兄の家にいる。こないだ会ったのはいつだろう? 先だっての正月には会いに行かなかったものな……。
 昨夜遅く、風呂場で倒れているのを発見され、救急搬送されたが亡くなったとのことだった。心臓だったらしい。苦しんだのだろうか? そうでないといいが。


■お葬式は明日だ。実は都合が悪くてお葬式に行けない。生涯に一回しかないイベントなのに欠席してごめん、ばあちゃん。来週帰るから、それまで冥土に行かずに待っててね。って四十九日の間は冥土に行かないんだっけか。あ、ばあちゃんちは神道だから四十九日とか関係ないか。


■お葬式を欠席するお詫びに、ブログにばあちゃんの思い出を書いておきます。お詫びにならんか。でもせっかくだから。というか自分のためだな。
 父方のばあちゃんが死んだのは20年前で、その頃はブログはおろかインターネットの存在すら知らなかった。ゆえに父方のばあちゃんに関しては何も書き残してない。すまん、父方のばあちゃん。


■百歳か百一歳ということは、ばあちゃんが生まれたのは1910年とか1909年だ。仮に1909年としてみると、明治42年、同世代は大岡昇平とか淀川長治太宰治田中絹代松本清張。フェルディナント・ポルシェ博士とかピーター・ドラッカー、「俺たちに明日はない」のクライドもこの年に生まれているという(wikipediaは便利だな)。いずれも20世紀を作り上げたと言っても過言ではない偉人たちで、それはつまり彼らが成人して仕事を始める1930年代が文明や文化の大きな曲がり角だったとも言える。
 ポルシェが駆逐戦車や重戦車を設計していたのはまだ30代前半だったのだな、というのも意外だ。ヒトラーのお気に入りはただのマッドサイエンティストじゃなくて、少壮気鋭のマッドサイエンティストだったわけだ。連続強盗犯クライド・バロウも、ウォーレン・ビーティが演じるとそれなりの年の伊達男に見えるが、実際は暴走族を卒業したくらいの若造のチンピラだったのだとわかる。もっとも、大不況の中で育ち、苛酷な少年時代を送っただろうから、年よりも老けていたかもしれない。


■僕のばあちゃんもこうした激動の時代に生まれ育った。どこで生まれたのかはよく知らない。僕が覚えている家は、広島県備後地方のちょうど真ん中あたりにある甲奴(こうぬ)郡上下町の近郊にあった。ここはばあちゃんが嫁いできた家で、牛を飼って田んぼをやっていたじいちゃんとの間に僕の母が生まれた。母には兄がいたそうだが僕は会ったことはない。従兄・従姉を残して家を出たらしい。だから、じいちゃんばあちゃんは僕の母や叔父と、まだ小さかった孫たちをいっしょに育てていた。


■地図で見ると上下町は広島県東部のちょうど真ん中だが、福山市あたりから見るともう県北、雪が降る土地という感覚だ。僕の生家もばあちゃんの家から山を一つ二つ越えたところにあったが、冬は雪だるまを作り、春先は雪が溶けてひどくぬかるんでいた記憶がある。距離にしてみると県南の工業地帯からそんなに離れていないのだが、高原地帯なので気温が急に下がるのだろう。地図の上では山陽地方だが、冬のどんよりとした曇り空は山陰という字面のほうが似つかわしい。
 幼稚園児の頃、1970年頃だが父が運転するスバル360に乗ってばあちゃんちをたびたび訪ねた。道順は覚えていないが、砂利道をゆっくり下っていくと鎮守の社がある森を過ぎ、数軒の農家が点在する斜面のいちばん手前がばあちゃんの家だった。作物を干したりする前庭があり、便所は母屋ではなく前庭の先にあった。肥にするから畑のそばに便所を設けるわけだ。母屋に向かって右が牛小屋になっていて、赤黒い大きな牛が1頭いた。
 牛小屋には草食獣の匂いが溢れている。彼が食べる草と寝藁、温かな牛糞の良い匂いだ。牛や馬の糞を汚いと思う感覚が僕にはない。幼児体験、何もかもが目新しく、楽しく、大人たちから全人格を承認され愛されていた頃の記憶に牛糞の匂いが必ずしみついているからだ。だから僕は動物園でゾウやサイを見たり、離島で牛舎のそばを通ったりすると、不意に幼時の記憶がフラッシュバックする。嗅覚って面白い器官だ。


■この牛だが、実際には温和しい良い牛だったのだろうが、小さい子には危険なので触らせてはもらえなかった。とにかく大きかった、という記憶しかない。怖かったから近くに寄ったりもしなかったろうね。
 祖父はこの牛を使って、道の向こうにある田圃を耕していたのだ。小さい子には広大な田圃に見えたが、今考えると棚田に毛の生えたような狭い土地で、何枚か向こうはすぐ山際になっている。機械が入らない田圃だから牛が適していたのだろう。機械を買うつもりもなかったろうが。
 長じて、牛を飼って農作業をすることがイマイチわからなかったが、宮本常一の『忘れられた日本人 (岩波文庫)』を読んだとき、やっと納得した。同書所収の「土佐源氏」、ご存じの方も多かろうと思うが高知県檮原地方の老いた博労(ばくろう)が民俗学者宮本常一に語った一代記である。博労が百姓にどんなふうに牛を売りつけるか、どんなふうに引き取るかが描かれている。なるほど、当時の牛というのは現代の自家用車なんだな。博労は中古牛のディーラーだ。


■祖父は原爆症だった。広島に原爆が落とされたとき近親者を捜しに市内へ赴き被爆したそうだ。当時は被爆者手帳を交付してもらうのに厳密な証人が必要で、同行した人の証人になった祖父は自分のための証人がいなくて被爆者認定を受けられなかった。原爆症はブラブラ病とも呼ばれ、傍目にはわからないが本人は体調がすぐれず辛いことが多いという。勤勉を尊ぶ田舎のことではあるし、また働かずにぶらぶらできる(今の僕のように!)ほど裕福でもなく、辛い体に鞭打って牛とともに働いたのだろう。山間部の朝は暗い。暗いうちから起き、山の端に日が落ちるまで田畑をやって日が過ぎたことだろう。そうして祖父は僕が5歳の春に亡くなった。神道式のお葬式なのでお赤飯が出たと記憶している。本当か? 黙って座っているのが苦痛だった記憶もあるな。
 祖父の死後、おばあちゃんは家を畳んで、県南へ引っ越した。僕の父も同時期に県南へ引っ越した。僕は入学したばかりの全校生徒18名の小学校を離れ、経済成長で人口が激増している県南の小学校へ転校した。全校生徒は1000名を越えていた。僕はまだ千という数字の意味がわからなかった。


■後に、じいちゃんばあちゃん家の跡地を訪れたことがある。牛小屋と前庭を備え、広間には囲炉裏(掘り炬燵)まであった広い家、だったはずなのに、たったこんだけの敷地なのか、と緑の草が伸びた空き地を見て思った。畑の石垣には野生化したイチゴがまだ残っていた。僕は素朴な山間部の集落から工業都市の都会的な(笑)ベッドタウンに投げ込まれ、こましゃくれた同年代の子どもたちにビビり、バカにされ、登校拒否になった。夜、布団の中で「あの牛はどうなっただろう?」と思い始めると不安で眠れなくなった。涙が止めどなく出たりした。
 今考えると、牛はディーラーが引き取って他のユーザーに転売したことだろう。肉にされたんじゃなかろうか、僕はそれを食べてしまったのではなかろうか、と不安におののいていたわけだが、杞憂だった。


■やがて新しい学校に慣れ、それでもビビりー癖が残ったせいで僕は病気がちな小学生になった。体は小さく学級でも最前列、ちゃんと大きくなるのかと親を心配させたことだろう。この頃年の離れた従兄が今の土地に家を建て、ばあちゃんと同居して一家を構えた。僕は田圃の間の道を歩いてこの家にしばしば寄り、学校や近所の友達の目を離れてくつろいだ(どうも僕は近所の友達が苦手だったようだ。引きこもり気味だったのかもしれない)。適当に甘えさせてくれる母方のばあちゃん(同居していないからだな)という存在も心地よく、年の離れた従兄が読み捨てた劇画を読んでドキドキしたりしていた。看護学校から帰ってきた従姉に連載が始まった頃の「ブラックジャック」を見せると「こんなX線写真はない。奥が写ってないじゃない」と言われた(畸形嚢腫、つまりピノコ初登場の回だ)。従姉には貸本屋にも連れてってもらった。関西の版元のマンガがほんのわずか置かれた、店じまい寸前の貸本屋だった。
 従姉の机にあったボンナイフを悪戯してて指を切り、大声で泣いた。いきなり血がたくさん出たので驚いたのだ。ばあちゃんは急いで二階に上がってきたが、傷を見ると慌てることなく落ち着いて手当てしてくれた。僕のパニックは収まった。
 ばあちゃんに連れられて近所のスーパーへ行った。山奥の町にスーパーはなかったのでいつもワクワクした。今考えると沖縄の田舎にある共同購買店と同じくらいの規模の店だったが。道すがら、はしゃいで不意に突飛な動きをする小児にばあちゃんは苦労したようだ。表通りはクルマも走る。クルマとすれ違うたび、ばあちゃんは体を曲げて僕をかばおうとしていた。僕はそれに気づかず右や左に視線を取られ、ばあちゃんをハラハラさせた。


■中学以降は以前ほど頻繁にばあちゃんちを訪れることもなくなった。クラブ活動や、自分で選んだ友達と遊ぶのが忙しいからだ。盆や正月に親戚が集まる席に顔を出すと、いつもばあちゃんは静かに端っこにいた。病むこともなく、いつ会ってもにこにこしていた記憶がある。年相応に体には不調なとこもあっただろうに、端にはそういうことを気づかせなかった。僕がガサツで気づかなかっただけかもしれないが。だが明治生まれの、苦労して生きてきた女性はタフなのかもしれない。父方のばあちゃんは八十いくつで亡くなったが、亡くなるまで病気らしい病気もせず、風邪をこじらせて短く寝ついた後に息を引き取った。前々から、ぽっくり逝きたい、と言ってたようだが、本当にそんなようだった。今回のばあちゃんの死も、百歳という年を考えると劇的なまでに静かな終幕だったと思う。
 ばあちゃんは死ぬまで家を離れなかった。家には従兄の子ども、つまりばあちゃんの曾孫が大きくなり、結婚して今は玄孫がいるんじゃないか。曾孫はばあちゃん孝行な子で、結婚する際「ばあちゃんは俺が引き取って一緒に暮らす」とまで言ったそうだ。偉いぞ曾孫、とも思うが、ばあちゃんも愛される可愛いばあちゃんだったのだ。


■僕はいい年をして独身で、しかも仕事も辞めてしまった。仕事を辞めたことは伝えてない。体の弱い、みそっかすの孫で心配をかけた。ごめんよ。とりあえず今は普通に育って健康だ。ありがたい。ばあちゃんたちの頑強な躯を受け継いだおかげだ。ありがとう。
 冬の日だまりのような笑顔と、こたつ布団の定位置を示すパイロンのような(失礼な!)ちっちゃな後ろ姿を思い出す。ずっと前に80キロを超えるほど肥えて里帰りしたときは「どなたさんじゃったかの?」と言われてしまったが、あれから15キロばかり痩せたのでもう間違えないかとも思いますが。ばあちゃん、ありがとう。ご冥福をお祈りします。

 

短信……インセンティブの罠

■日々、老眼が進んでいる。去年の今頃近くを見るのがこんなに辛かった記憶はまったくないので、今年になって老眼になってるんだなと実感する。会社にいた頃、諸先輩方がゲラや新聞を見るとき眼鏡をとったり腕を伸ばしたり天眼鏡を使ったりしていたのを半ばバカにしながら眺めていたのだが、それがいかに愚かであったか思い知っているところだ。老眼を避ける術はない。諸先輩方、ごめん。祟りですかね、俺の老眼が年の割に早いのは。
 老眼になると細かな文字を読むのがかったるくなる。オタク的な書籍の細かな細かな注釈とか、もう読むのを諦めることが多い。街中でも、歩いてて突然店先のメニューを覗き込むとかすると、眼球が小さい文字モードに変われないので細かな品目とかキャプションなんて全然読めない。その店で食うのは諦めることになる。こうして中高年の消費が冷え込み、偏っていくのだな。
 老眼の進展が日々著しいので遠近両用眼鏡をあつらえ直すこともできない。夏前に新しくしたやつがもう合わなくなってるくらいだ。老眼になると近くが見えないので、近くを見ることが不愉快になる。初老期鬱の原因の一つだろうし、老人が不愉快そうなのも老眼など入力センサーの不調、あるいは出力である運動機能の不調に由来するのだろうなと思う。ああ、俺ってもう老後か。退職してるわけだしなあ。


■退職して日々是好日悠々自適な毎日を送ってるわけじゃなくて、一応求職活動をしている。ハローワークに登録し、雇用保険の失業給付をもらい、前の会社がセットしてくれたアウトプレースメント会社の再就職カウンセリングに通っている。通っている…のだが、これが実態としては月に2回求職活動の実績を作って失業給付の条件をクリアするために通ってる、という自家撞着状態になっている。つまり、失業状態を続けるために求職活動をしているのである。
 なぜこんな本末転倒なことになるかというとそれは明らかで、失業給付という制度が求職者の「就職しなきゃ」というインセンティブと逆の方向に働いているからだ。

雇用保険加入者が失業状態になれば失業(基本手当)給付が行われる。これ自体に異論はないだろう。問題は、給付の中身が失業者の再就職インセンティブを低下させてしまう場合である。給付内容がよいために再就職のインセンティブが削がれ再就職行動が鈍化すれば、本来もっと早く再就職できたはずの人を長く失業状態に留めてしまう。

↑[PDF]『雇用保険制度が長期失業の誘引となっている可能性』(小原美紀)
 同じようなことを言ってる人は大勢いて、リバタリアンの人によるブログでも「雇用保険制度は失業率を底上げしている」と↓。

 生命保険は死なないと出ない。医療保険は病まないと出ない。だが雇用保険は簡単に出る。だから軽い気持ちでモラルハザードに陥りやすい。本人も失業保険をごまかすくらい犯罪とも思いにくいだろう(生命保険や医療保険と違って)。(中略)
 雇用保険制度は、転職しないで働く人が損で、転職する人に得な仕組みだ。言い換えると、転職する人が、しない人から、金を収奪する仕組みだ。「保険」という耳障りの言い言葉でごまかしているが。正直者が馬鹿を見る仕組みだ。

 これまさに僕が今陥ってる状況なんだが、これがモラルハザードだとは気づかなかったよ。すまん。しかし、なるべく経済合理的に行動しようとすると、失業給付の制度設計って「なるべく働くなよー」という信号をばんばん送ってきてることに気づくんだよね。
 たとえば失業給付は、給付期間中に働いて給与をもらうようになると打ち切られる。僕が受け取っている給付額は7,505円/日と高額なので、少なくとも給付期間中に就職するとしたらこれより高い給与の仕事でないと損!ってことになる。そういう仕事はなかなかない。というか、失業しててこの額を得られるのに、一生懸命働いてこの額を得るほうを選択する人っているんですか。
 じつは早く再就職したら支給残日数に応じて再就職手当とか就業手当をもらえる、という制度もあるのだが、これがあまり魅力的なインセンティブに見えないので効果を発揮しているとは言い難いだろう。
 さらに失業給付は毎月受給資格を申告して認定してもらうわけだが、その際「アルバイトしませんでしたね」とか「働いて収入が発生したら申告してくださいよ」と厳しく言われる。僕はポット出版さんのUstに出たギャラとか対談のギャラとか細かく申告している。申告した日の分は不支給になる。これを申告しなかったら完全なモラルハザードというか犯罪だろうけど、求職に消極的なまま失業給付を受給し続けることまでモラルハザードと言われるとは知らんかった。制度の枠内だから問題ないと思っていたのだが。
 たぶん、失業給付を受けつつぼーっと過ごしている僕のような者を、現役で働いている人が見ると、「俺らのカネにたかりやがって」と思うのかな。うーん、でも俺も現役のときは雇用保険を会社に払ってもらってたんだぜ。君らもそうだろう。今は俺がもらう番てだけだろう。
 失業給付の制度設計が奇妙なのは、「自営業を始めるときも申告しろ」とか「インターンや研修でも申告しろ」とやけに細かくうるさいことだ。小姑かってーの。こういう縛りが働こうとする意欲をじわりじわりと削いでるんじゃないか。転職がままならないから起業する、なんて人の意欲も削ぐわけで。この制度下でもっとも経済合理的な行動は、“給付してもらえる間は認定条件を満たす求職活動のみ行う”となる。それ以上、たとえば試しにバイトしてみるとか、起業を目指してみるとかすると、給付が止まるかもしれないもの。それはイヤだよね?
 というのが雇用保険失業給付におけるインセンティブのジレンマ、という話です。僕もこの罠にはまり込んでる真っ最中です。
 これ明らかに制度設計が間違っています。どなたか優れた社会学者か経済学者にシステムデザインし直してもらいたいですね。また現状、認定資格を審査するのに膨大な人手を要しています。ベーシック・インカムにしてしまえば審査する必要がないので良いんじゃないかなと思うんですが。BIなら就職が決まって給付が打ち切られることもないしね。


インセンティブの問題は想像以上に大きくて、道徳的・世間の目的なインセンティブというのもあるにはあるが、金銭的なインセンティブを凌駕するものってなかなかないわけで。そして人は意志やプライドだけではインセンティブに抗って確固たる行動をとることが難しい。この金銭的なインセンティブというのを見えにくくしたうえで一所懸命働けよと社員に発破かけてるのが古いタイプの企業の特徴なのかもな、と思ったりする。


■しかし人には反対に“バカやっちゃう”に代表される、合理的でない行動というのがある。ある一瞬、インセンティブの重力から自由になれる瞬間がある。なかなかないけど、稀だけど、たしかに存在する。


■ああ、今夜は鍋だから大根と白菜の芯を先に煮なければ。味付けは……いいのを思いつかないからキムチにしよう。今年は「白みそ仕立てのチーズ鍋」がトレンドなのか? なんだかすごいカロリー高そうなんだけど。

短信…無職という日常

 ずーっと更新しなかったけどちょっとは更新しとこうかと思ってこんな投げやりなエントリをば。


■長い長いエントリの下書きをしていたのだが、なんだか書くのに飽きてしまったので更新しなかったのだった。かなりな勢いでテンションが落ちている。というか、エントリ書かないと一日が有効に使えて楽しいんだよね。エントリ書き始めるとすぐ三時間とか経っちゃって貴重な昼間が瞬く間に過ぎてしまうので。本末転倒か。


■そういうわけで今は無職生活をエンジョイしている。図書館に行き、古い本を物色して読む。新刊を一冊買って読んだら、そこから興味が赴くところを三冊とか四冊図書館で借りて読む。消費不況を推進しているのか俺。


■先日読んだちくま新書快楽の効用 −嗜好品をめぐるあれこれ−』(雑賀恵子)が面白く、とくに砂糖についてグッと来たので図書館で『砂糖の文化誌−日本人と砂糖−』(伊藤汎監修)とか『太りゆく人類−肥満遺伝子と過食社会−』(エレン・ラペル・シェル)を借りて読んだ。砂糖はアルコール・ニコチン・カフェインという三大依存物質が普及する際に必ず彼らの伴侶として用いられた食品で、かつ砂糖自身も依存物質っぽく用いられる。つまり依存物質メジャー4とも言うべき偉いやつで、依存物質に目がない僕にはとても気になる存在なのだった。


■洋菓子屋にはパティスリー・コンフィズリー・グロスリーの三つのジャンルがある、なんてどうでもいい知識を得たりする。砂糖は別に法で規制されたりしてないので街中の至る所に遍在している。八百屋の店先に積んである上白糖はどこから来たのだろうか? 沖縄から(甘蔗糖)か、北海道から(甜菜糖)か。京都に行って和三盆を可愛く固めた菓子を買って食べたいな。などなど。


■さらにどうでもいいことだけど、完全にタバコを止めてしまった。ニコチンのない生活はかなり寂しい。けど、タバコを吸うたびに期待がはずれた感じ、失望感を味わい、それでもまた吸ってしまうというつまらない循環を繰り返していたのに比べると、タバコを吸わない毎日は楽だ。そもそもストレスのない日常なのでタバコなんて吸う必要はまったくないのだ。(ストレスがないのがストレス、ということもあるのだが)


■本を買わず、酒もそれほど飲まず、タバコをやめると、毎日の支出も劇的に減る。いま僕の最大の支出は年金・国民保険・地方税を除くと、近所の八百屋での買い物だ。昼飯も外食せず自分で作るようになった。夜はとくにがんばって作っている。夕方から作り始め、19時前には四品くらいできてる状態を目標にしてる。最近は魚屋で買い物することも覚えたので野菜料理だけじゃなくてタンパク質も大量に摂るようになった。


■3バイ420円のスルメイカをさばいて塩辛を作る。昼ご飯のおかずは塩辛だけで十分だ。あるいは4匹420円のサンマ、2匹は塩焼きで食べるけど2匹は三枚におろして酢で締める。一食につき半身ずつ食べる。そして最近凝ってるのが生筋子だ。ほぐしてイクラの醤油漬けを作る。5%食塩水などに浸けて処理しろ、というレシピが多いが、「手を浸けると熱いくらいの湯に浸けてほぐす」という革命的レシピを発見した。こうすると筋子の周りの膜が白化してほぐしやすいのだ。湯の中で作業してるとイクラの粒々も白化して「大丈夫か?」と不安になるが、後で醤油・酒・だし・みりんの汁に漬けるとぴかぴかのイクラに戻ってくれる。美しい。売ってるやつより薄味に作れるのもいい。塩辛にしなかったイカの身といっしょにご飯に盛るとイカイクラ丼だ。函館に行かなくてもそこそこ美味いやつを家で食える。


■シラスも好きだ。シシトウといっしょにオリーブオイルとニンニクで炒めるとペペロンチーノになる。こないだシシトウと間違えてアオトウガラシで作ってしまった。辛くて大変だったが発狂しそうになりながら完食した。自分で作ったものを捨てる気にはなれない。だから太ってきた。浅田真央も自炊したから太ったってか?


■あるいは季節がもうほとんど終わってる桃、今は八百屋に黄色い桃がちょっとだけ居る。これを買ってきて、食べようとするとあまりに硬いので細かく切ってヨーグルトに漬ける。数日するとまあなんとか食べられるようになる。そういうものが冷蔵庫にいくつも入っている。会社に行ってた頃は自炊なんてほとんどしなかったので冷蔵庫には使わないスパイスとたまに家で飲むときにつまむチーズくらいしか入ってなかったが、今はいろんなものが入っている。野菜室の点呼が大変だ。八百屋の店頭から電話すると中身を答えてくれる冷蔵庫とかあるといいのにね。


■ニンジンを荒っぽい千切りにするおろし金がある。沖縄で買ったものだ。ニンジンシリシリという、人参の千切りを卵と煎った一品のための専用おろし金だ。ニンジンシリシリは簡単に一品増えるので楽だ。味も良く、とてもニンジンだけとは思えない充実度。沖縄では青いパパイヤもこれでおろして炒めるらしい。沖縄の道ばたとか庭先にはパパイヤの木が実をつけているよね。東京も暑くなってるのでパパイヤが自生するようにならないかな。今度パパイヤを食ったら種をとっておいて、街路樹の根元に埋めてみよう。


■今夜の夕食は、塩辛・イクラ大根おろし・山芋千切り卵黄あえ・山芋明太子あえ・ポテトサラダ・イカと大根煮・胡瓜酢の物シラスがけ、だった。やけに根菜、やけに魚卵というメニューだけど。夏場は暑くて煮物をする気になれなかったけど、これからは煮物が旬だ。煮物は翌日も食べられるので簡単に一品増やせていい。主婦の知恵素晴らしい。


■もっと寒くなると鍋の季節だ。カレー鍋が流行ったのは一昨年だったかな? 去年はトマト鍋を流行らそうとしたやつがいたけど流行ったのだろうか。今年は何か。味噌仕立てを研究してみるか。それとも中華風火鍋を家で再現してみるか。


■そんなことより、ちゃんと炒め物ができるようにならねば。中華鍋をあおって水分を飛ばすとか、手際よく炒めて炒めすぎないとか、熱いうちにきれいに盛って出すとか、そういう基本的なことができるようになりたい。菜箸がうまく使えないのだった。だからスパチュラを使ってる。プロみたいに丸お玉で炒めるとか、やってみたいね。

徳大寺有恒の本はやっぱり凄い。面白い。

 図書館をぶらついてて『日本のクルマ社会を斬る!―『間違いだらけのクルマ選び』20年ベスト評論集』(草思社1996)を見つけたので借り出して読んでみた。自動車評論家・徳大寺有恒さんのデビュー作から20年分の『間違いだらけのクルマ選び』の批評原稿の合本だ。
 この14年も前に出た、元々の原稿は33年前という古い本が、無類に面白い。なんでこんなに面白いんだ!と思いながら読んでる。昨日「リストラなう」日記のほうにクルマについてちょっと書いたのは、もろにこの本の影響だ。かぶれやすいんです。
 僕はもともとそんなにクルマが好きではなかった。月給取りになってからは休日は昼酒が飲める数少ない日というわけで昼からビール呑んでたので運転する機会などまったくなく、免許証はビデオ屋の会員になるための身分証にすぎなかった。だから更新を忘れて失効したこともあった。
 だけど30代半ばでうつ病をやり、酒を止めた(以降7年くらい飲まずにいた)。とすると運転もできるなと気づき、以来クルマに興味を持ち始めた。だから2001年以降のクルマについては雑誌や書籍でそれなりに勉強した。一番好きな自動車評論家は福野礼一郎、クルマに関する創作で好きな作家は楠みちはる絲山秋子だ。楠さんは『湾岸ミッドナイト』の人だと多くの方がご存じと思うが、僕にとっては『シャコタン★ブギ』の人だ。高知と思しき地方が舞台の若者クルマ文化誌。絲山さんは「NAVI」連載の短編集『スモールトーク』が小説のくせに絶妙のクルマ批評にもなってて、初見のとき脳が唸りを上げて驚いた。面白い小説です。それと『逃亡くそたわけ』はクルマが副主人公のロード小説、そんじょそこらの人には書けない大傑作だと思います。
 という案配の、遅れてきて背伸びする耳年増のクルマファンなのだった。だからむしろ本流の徳大寺さんの本はあまり読んだことがない。
 ところが今回『間違いだらけ』の古い評論を読んでみると、とくにデビュー作の1977年の原稿は、これ読んだ覚えがある。そう、小学生のときに父親が買ってたのを読んでたのだ。
 当時僕は広島県にいた。学校裏の駐車場に教師の通勤車両が停まっていたのを思い出す。セリカリフトバック、スカイライン(箱スカ)、N360、セルボ、そしてサニー、カローラ。地域性もあってファミリア、ルーチェ、サバンナ。『間違いだらけ』を読んではそれらをしげしげと眺め、反芻していた。当時から耳年増なのだった。
 あれから30年以上が経ち、クルマそのものも自動車評論もずいぶん変わった、変わったはず、と思っていた。ところが1977年に書かれた原稿が今も十分面白く読めるのは驚きだった。それはつまり、徳大寺さんの書いたものが経年劣化していない、ズバリと本質的なことを書いていたからだと思う。


■『間違いだらけ』で今更発見した史実
 1977年版で非常に面白かったのは、「グレードアップ商法に騙されると身の破滅」という原稿だ。当今は流行らないが、当時クルマを買うということは、次にちょっと大きなクルマに乗り換えるという消費サイクルに参加することを意味していたのだ。
 当時の一般的なカーライフは、独身でパブリカ(チェリー)、会社で中堅のヒラくらいになるとカローラ(サニー)に家族を乗せて走り出す。ちょっと役が付くとコロナ(ブルーバード)、部長になるとマークII(ローレル)、局長とか役員になるとクラウン(セドリック)、という双六みたいな購入モデルがメーカーによって用意されていたのだという。「いつかはクラウン」という、今聞くと意味のわからないコピーにはこういう背景があったのだと。
 年齢とともにエンジン・車体ともに拡大していかなければならない、という考えの根拠は、間違いなく経済成長だろう。「3年後の日本経済は今より大きくなっており、俺もおそらく部長になっており、子どもも大きくなってるのでクルマも大きくプレミア感のあるものにして立派にふるまわなければ」という思想が蔓延していたのだ。これ、今考えるとものすごく根拠レスだし、ある種の信仰に近い気がする。数年後には出世していたい、という願望はわかるけどね。
 これはクルマに限らず家でも仕事でも成長していくはず拡大していくはずという無意識の基調が当時の世の中にあったのだ。当今の前提は収縮していく日本でどうすれば生き残れるか、明日は今日より暗いかも、という基調なのだから正反対になってしまったわけだ。
 徳大寺さんが偉いのは、そういう成長前提の風潮が吹き荒れる当時から「小さいクルマが大事なのだ、小さく制限されたなかでどれだけの性能と機能を実現できるかが重要だ」と訴え続けてきたことだ。彼がクルマを批評するときの基準は74年にデビューしたVWゴルフだと聞いたことがある。さにあらん。小さく限られたなかで実現された機能と性能、その集積が美しいカタチをとり、しかもよく走る。よく走るのは小さいなかで考え抜かれた性能の集積がよくできているからだ、という理詰めのプロダクツ。
 徳大寺さんの批評が産業界や市場にどれだけの影響力を持っていたのか、しょうじき僕にはよくわからないが、昨今のコンパクトカー隆盛を見ると徳大寺さんの理想が実現されつつある気がする。カローラに替わってフィットが販売台数1位になり、軽自動車が大きく支持される今日の日本市場。これはけっして自然の流れとかじゃなくて、誰かが「こうした方がいい!こうあるべき!」と言い続けた力なくしては実現しなかったんじゃないかと。
 メーカーもグレードアップという上昇志向をあおる商法をやめ、ハイブリッド車のように長く乗らないと元が取れないクルマ、つまり長く乗ってもらうことが前提のクルマを作り始めた。もっとも、グレードアップ商法が成立しないくらい厳しい不況が長く続いているということかもしれないが。


■徳大寺さんはなぜブレなかったのか?
 彼は「徳大寺有恒」としてデビューして以来、30年以上を一線の自動車評論家として生きてきた。その間いろんなことがあったと思う。まず自動車評論家はライターの一種であり出版という産業、エコシステムの中で暮らしている。出版業の中にも政治があり、流行=はやり廃りがあり、じじつ現在モータージャーナリズムという出版の一ジャンルも往年の隆盛から衰亡の途上にある。
 また自動車という商品を語ることから、自動車メーカー、サードパーティといった利害関係者との政治がある。書評家と違って評論したい商品をひょこっと買ってみるわけにはいかないから、メーカー広報から借りたり伝手を辿って探したりするうちに複雑な人間関係、政治状況に絡め取られることもあっただろう。まして商品を作っているメーカーから借りて、好き放題運転して返却し、感じた通り思った通りのことを書くというのは難しい。「借りた」時点で依存関係が生まれ、次も商品を「借り」なければ評論ができないという一方的な力関係のなかで表現の独立性を保ってきたのは本当に大変なことだ。難事業だ。
 いまネットには無料で読める自動車評論、新車レビューが山のようにある。だがよく読むと、同じ時期に発表された新車のインプレッション記事は、書き手が違うのに同じ表現があったり、表現は違ってても同じ箇所を同じ論調で論じたりしているのに気がつくだろう。例えばBピラーを取っ払って大きく開くスライドドアを搭載した車種があるとすると、その印象記は、どれもこれも「広々と開いて気持ちがいい!」となる。ピラーを取り除くと剛性感が変わるだろうし走った感じも違ってくるだろう、スライドドアは重量増になるかもしれない。それは燃費の悪化から耐久性にまで影響するかもしれない。だがそういうネガティブなことは新車発表時のレビューで触れられることはあんまりない。みなが褒めているなら1人くらい意地悪な批評家がいてもいいんじゃないかと思うが、どうも新車レビューはどこのサイトで読んでも横並びだ。それが速報であればあるほど、似ているのも不思議だ。
 これはたぶん自動車会社が配布するリリースを元に原稿を書いている、あるいはそのように論調を誘導される試乗会に参加して書かれたものだと思う。映画のレビューはもっと顕著に同じことが起きてますよね。
 30年の間徳大寺さんはそういうたわけた仕事をまったくしなかった、かどうか僕は知らない。僕は彼の良い読者ではなかった。
 彼の“メートル原器”だったフォルクスワーゲンゴルフは30年のうちにずいぶん変わった。現行は6代目? 大きくデラックスになり、性能も高いが重量もかさむ、初代の面影がなかなか見当たらない別人だ。いま改めて初代を見ると現行VWポロより小さいことに驚く。この肥大化は、30年の間に自動車産業が辿った拡大の結果であり、安全基準などの要求を呑んだためであり、市場=消費者の欲望を取り入れてきた結果だ。自動車というモノの世界はこんなふうになってしまった、という象徴だ。
 けど、彼の20年分の評論を年代関係なくランダムにツマミ読みしてみると、言ってることが見事に変わってないことがわかる。この一徹さはどこから来たのか、何に由来するのか。
 それはもしかすると、彼の評論の対象であるクルマが「走り、曲がり、停まる」、「人を乗せ荷物を載せ、暑さ寒さを耐えしのぶ」という物理的な存在だからじゃないか、と思ったりする。
 30年の間に自動車をめぐる環境や社会、思想は大きく変わった。だけど物理法則は変わってない。公称燃費の算出法が10・15モードになったとかそういう矮小な変化はあったけど、物理の法則は1ミリも1グラムも揺らいでいない。
 僕の好きな福野礼一郎さんはこれを「物理の神様」と呼んでもっとも大事にしている。エンジン出力の改善や電子デバイスの進化などより、走る・曲がる・停まるに適した物理構造でクルマの素性が決まる、つまり大きさ、重さ、レイアウトでだいたい決まってしまうのだ、そして走るのに適したクルマは「小さく・軽く」あるべき、という。
 徳大寺さんもそこに異論はないはずだ。というよりむしろ、福野さんがクルマというハードそれ自体に批評が向いてるのに比べ、徳大寺さんは『間違いだらけ』で開始したスタンス=庶民のあなたが買って乗るのに適したクルマは何か、にずっと寄り添って語っている、そのうえで「軽く小さいクルマでたくさん積めるのが良い」と主張し続けているのだ。福野さんはストイック、徳大寺さんは世俗的。に見える、僕には。だけど2人とも「物理の神様」にはとても忠実。
 物理法則は今も昔も変わらない。衝突安全基準が変わって車体が大きくなければならないと決められた後も物理法則は変わらないわけだから、大きく重くなったビハインドを頑張って取り戻さねばならない。それは決して、重たい大出力エンジンの採用ではない、さらに軽く小さく作るにはどうすればよいかだ、というのが2人に共通の思想なのだと思う。
 74年のゴルフという傑作クルマはもう今はない。だけど徳大寺さんはそのゴルフが体現していたものを会得し、30年間その何かを大事に守ってきたのだと思う。それが「変わってない」感につながってるのだと。
 別のエントリ内田樹さんの本を挙げ、「その情報を得ることによって世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」という判断基準を引用した。その伝でいくと、この『日本のクルマ社会を斬る』は、日本のクルマ社会の成り立ちを理解する恰好の助けになるのだ。ほんとに。すごい良書です。
 こういう本はほんとはクルマに興味のない人が読んでこそ役に立つ――最も短い時間でしっかりとしたことが分かるわけで――それこそが徳大寺さんと草思社の方々が企画したことであり、その結実が今の良いクルマに反映していると思う。
 社会を変えた書物というのは少ない。だが、このシリーズは読者を良いドライバー、良い消費者に導こうとし、面白く読ませようとした、たいへん志の高い本だったと思う。文章も良い。著者もいいけど優秀なスタッフライターの方々の仕事だと思う。本当に良いものを読ませてくださって、ありがとうございました。御礼言うのが遅すぎたね。ごめん。


※webにもすぐれた自動車評論家はいて、僕はこの人が大好きです→B_Otakuのクルマ試乗記
 この人も広義の徳大寺チルドレンだと僕は勝手に思っています。

痒い! 都会の蚊がすごいことになってる件

 先日から全身のあちこちが痒い。なんだか体中を蚊に食われているからだ。台風の日に外出した折、コンビニとかビルの軒先とかで雨宿りしたのだがその時刺されたようだ。
 田舎に帰った折、実家のそばにある薬師堂でぼーっとくつろいでいると藪蚊に刺される。田舎の藪蚊は強烈だ。都会で見かけるやつとは大きさも迫力も、口吻(こうふん)の太さも違う。口吻が太いから刺されたとき「ぐさっ」という感覚があるくらいだ。脛など体毛が生えている部分にたかられると、六本の足がすね毛に触れ、やつらの存在を明確に感じるくらいだ。
 最近刺されまくった都会の蚊はちょっと違う。田舎の蚊と違って体は大きくないかもしれない。気配を察知する隙もなく、いつの間にか刺されている。そして、この痒さが尋常ではない。僕は元来、蚊に刺されても刺されたことを忘れてしまえるくらい痒みに鈍感だ。ところがこの二、三日に刺された蚊は猛烈に痒い。眠りの深い僕が夜中に痒さで目覚める。翌日以降も痒みがおさまらず、キンカンを大量に塗布しても痒さはおさまらない(もともとこれらの虫さされ薬は痒みを中和することはできないのかもしれないが)。
 みなさんご経験おありだと思うが、掌とか足の裏など皮膚が分厚くなっている部分を刺されると痒みは倍増、三倍増する。掻いても気が紛れず、かえって蚊の毒素を皮膚中に拡散してしまい、痒みはさらに倍する。今僕の左手の親指つけ根がそうなっており、この痒みの苛立たしさはいかようにもしがたく、せめてこうしてブログで痒さを表現して気を紛らわすのみ、なのだ。


 アル・ゴアが提起した論議だったか他の誰かだったか忘れたが、地球温暖化で予想される災害の一つに「熱帯病の蔓延」がある、と聞いた。蚊は何種類もの危険な伝染病を媒介する。マラリアデング熱、黄熱病、西ナイル熱日本脳炎シンガポールに行くと「植木鉢の敷き皿を消毒しろ!」としつこく電車内に掲示があるがこれはデング熱予防キャンペーンだ。
 マラリアは最も危険な伝染病で、ワクチンがないから副作用の強い予防薬を常用するという対策しかない。これがアルコールと相性が悪いのでジャングルに旅行すると大変…という話は西原理恵子のエッセイで読んだ。あとは蚊帳を吊ったり、虫除けを使ったりするしかないという、考えてみりゃそんなの無力じゃんって対策しかないのだ。蚊、最強だな。
 僕はマラリアは熱帯特有の伝染病だと思っていたのだが、戦前までは台湾でも猛威を振るっていたらしいし、もっと古くは熱病「瘧(おこり)」として日本の古文学にも登場しているらしい。近代以降は瘧という記述を見かけないようなので、なぜだか日本本土では駆逐されたのかもしれないが。
 マラリアは原虫が体内に残るので汚染地域を離れても発症の危険は去らない。なかでも脳マラリアは危険で、東南アジアで感染して帰国して発症すると、日本の医師はマラリアに詳しくないのでてをこまぬいているうちに重篤になり死亡する、という悲劇的なケースもあるという。傭兵・高部正樹氏の実体験小説『戦争理由』では、戦友が帰国後に脳マラリアを発症して亡くなった逸話が書かれており涙を絞った。
 天然痘が根絶された今、マラリアは地味だけど着実に危険度ナンバー1の感染症かもしれない。もちろんAIDSは深刻だし、SARS鳥インフルエンザも重大だ。だが、こういう派手なケースの裏側で、じわじわと忍び寄る蚊のように地味な死病が近づいている気配を感じるのだ。気のせい?
 今年の猛暑はすごかった。東京が連日摂氏35度ってなんだよ。沖縄・台湾・シンガポールより暑いじゃんかよ。ということは、東京に熱帯の蚊が入り込めば十分繁殖できるってことじゃん。そして越冬できる環境があれば…。いや越冬しなくても、一夏だけのパンデミックとかってあるかもしれない。
 黄熱病とかはワクチンがあるから比較的対処しやすいんじゃないかな。僕もワクチン接種済み証明(イエローカード)持ってました。ケニヤ観光した折、八重洲で痛い注射を受けた。今は検疫所移転したのかな?(ケニヤの観光地は主に高地なのでマラリアも黄熱も事実上危険性が低いようです。モンバサは低地なので可能性あり、とも聞きました)


 マラリアなんて取り越し苦労だとしても、今シーズン終盤の蚊の痒さは尋常ではない。こいつら、ちょっとモノが違う。何かが変化しつつあるよーな気がする。植木鉢の敷き皿で、立体駐車場の底で、道ばたに捨てられた空き缶でやつらは静かに殖え、怪超音を発して飛び立つのだ。僕たちの血を啜りに。

タマフル必修映画祭 in 新宿バルト9に行ってきた!

■映画は好きだけどめったに映画館に行かない、最近はとくに盛り場から遠くなってしまったので映画に行くことすら忘れていたたぬきちです。昨日はTBSラジオライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」主催、「タマフル必修映画セレクション」に行ってきました!
 タマフル(番組の略称)のファンだけど、リアルタイムに電波で聴くのが苦手(バックトラックが鳴ってるのが嫌い、かつ電波状態悪し)かつ、横になって聴いてると寝る人なのでPodcastで聴いてたんだけど、思いたってライブに行ってきたんだよ。一昨日、イープラスでチケット予約したんだけど普通に買えたよ。ほとんど天井桟敷のO列だったけど、通路際で良い席だった。


■開場は19時なんだけど、ちょっと早めに新宿三丁目のバルト9、シアター9のフロアへ。500名収容の劇場がほぼ満席なのでロビーも混んでるかと思ったが早く来てる人は少なかった。こういうイベントの客を観察するのが好き。ていうか僕も他人から観察されてるわけだが。開場を待ってるのは圧倒的に独り客が多かったが、いざ開場して行列してるなかにはカップルが多い。カップル客のみなさん! 番組のコンセプトをご存じなんですか! これは男女で楽しむ番組じゃないんですよ! と言いたくなるのは俺が独りだからか。女子一人、または女子二名といった客もいて、おお!あんたらは男気があるね!と無意味に感動。別にカップルで見てもいいわけだがね。


■橋本P(声から想像したよりも横にがっちりした体型の方でした。ていうか近くで見るとやはり巨体)の「シネマハスラー・ドッグ」450円也のプロモーションの後、宇多丸さん、しまおまほさん、構成作家古川耕さん登場で軽くトーク。良いイントロダクションです。一家で「グラインドハウス」好きのしまおさんがネタバレ喋るんじゃないかとちょっとハラハラしたのがまた楽しい。
天井桟敷でもとても楽しかったよ


■本編は2本の映画がぶっ続け上映、その合間に偽予告編付き。長いです。3時間くらいか。まず予告編「マチェーテ」。次にロバート・ロドリゲス監督「プラネット・テラー」。予告編3本「ナチ親衛隊の狼女」「ドント」「サンクスギビング」。そしてクエンティン・タランティーノ監督「デスプルーフ」。
 予告編の間には「お食事は劇場隣の当店で」と止め画オンリーの安CMも入って雰囲気最高。僕が岡山で2本立てを見てた頃は「また来てしまった丸亀の夜」なーんて瀬戸内海の向こうのナイトクラブのCMが入ってたりしたのを思い出した。当時は瀬戸大橋もなかったのにな。
 偽予告編では「ショーン・オブ・ザ・デッド」のエドガー・ライトが撮った「ドント」が一番気に入った。この人はイギリス人なのでごくごく短いなかでもモンティ・パイソン的なバカ展開をやってて、一番笑える。主演女優は「ホット・ファズ」で殺されるシェイクスピア女優ですね。
 イーライ・ロスの「サンクスギビング」も気に入った。「ハロウィン」に惨劇が起こるなら感謝祭で起きてもいいよな、というわけでお約束ホラー映画の偽物。日本でも誰か撮らないかな、「お盆」とか「ひなまつり」とか「三の酉」とか。


グラインドハウスとは、B級映画を2本立て以上で見せる、ぼんくら向けの興業形態のことらしい。って受け売りです。「ロッキー・ホラー・ピクチャー・ショウ」の主題歌で「♪サイエンス・フィクション〜 ダブル・フィーチュア(SFの2本立て)」と歌われてるけど、これですね。もっともイギリスでもグラインドハウスって言うかどうか知らないが。このタマフルイベントは、安い劇場とかドライブインシアターに集合したつもりで見ようよ、トイレ立ってもいいし、マナー悪く何か食べてもよいよ、という主旨なのだそうだ。でもみなさん映画に集中して、マナー良かったですよ。


グラインドハウス映画の精神、というのがあるのだろう。グラインドハウスの客はぼんくらでバカなので、「待たせない」「わかりやすい」「すぐに盛り上がる」「血がドバドバ」「音楽は古くていいからビートと大音響」「派手で悪趣味なアクション」「安くてもいいから派手なおねーちゃん」などなどのはずせない決まり事があるというか。あとはカンフーかな。こういうのが主成分です。
 つまりは男の子が大好きなバカ映画の条件を押さえとかなきゃいけない、ってことなんだけど、それを低予算で撮るということも条件になるのか。いや低予算は必須じゃないが、低予算を克服するための“工夫”は必須条件ということで。


■1本目「プラネット・テラー」、これはきっちりコンパクトにまとまったゾンビ・パニック映画のパロディ。いやパロディ成分よりも正統派ゾンビ映画の成分の方が多かったゾ。何より、大好きな役者がいっぱい出てるのが良かった。そういうお祭り感に溢れた映画。ジョシュ・プローリン(DV医師)にグッと来る人が多かろうが、僕はやはりマイケル・ビーンの保安官とトム・サヴィーニの副保安官が嬉しかった。ブルース・ウィリスがどうでもいい存在感を主張してたのも笑った。
 これはやっぱり正統派のグラインドハウス映画と呼ぶべきだろうと思う。上映後のトークで「どっちが好き? プラネット・テラー派の人!」と挙手を求められたが圧倒的に少なかった(僕はこっちに挙げた)。それはわかる。「デスプルーフ」の凄さは並みじゃないから。でもグラインドハウスの精神を一所懸命に具現化しようとしたのはこっちだと思う。サービス満点だし(サービス過剰だから「デスプルーフ」と比べると平板に見えちゃうハンデがある)。
 単体の作品として見ると「フロム・ダスク・ティル・ドーン」(1996)そっくりな作品なわけだが、比べるときっちり十年分以上進化してて、気持ちよさやタイト感もグッと上昇。ていうかグラインドハウス仕様という枷をはめたことがより良かったっていうか。
 僕はこの映画好きですよ。ていうか本作があるから、より「デスプルーフ」が際立つわけで、感謝しろっつーのタラ。ただ一つのクレームは、ネタバレになるけど、AR-15はあんなふうな形で装着することはできないと思うんだよな。機関部の後ろにリコイルスプリングがあるから。こういうご都合主義、実銃と関係ないよプロップだから主義もグラインドハウス精神なのかもしれんが。(それを言うなら、どうやって引き金を引いていたのだ、という突っ込みも必要だしな)


■2本目、「デスプルーフ」。これはちょっとグラインドハウスのルールを逸脱した反則の作品だ。何より、この作品は客を「待たせる」のだ。中盤まで女の子グループのくっだらないベチャベチャしたお喋りに付き合わないと肝心のアクションシーンが始まらない。ずーっと我慢させられてたから、最初のアクションで「どっひゃー」となるわけだが、これは単純な引き算と足し算による落差のなせるワザで、ちょっといただけない。ずるいよタラ、と思うのだ。
 後半、別の女性グループが登場してからは奇跡のような盛り上がりが始まるのだが、この盛り上がりがあまりにも神懸かり的で、前半部であんなひどい我慢を客に強いたというズルが帳消しになる。だから誰もタラがズルいことを指摘しない。ロドリゲスは一所懸命ルール守って作ったのに「プラネット・テラー」は噛ませ犬((c)宇多丸)的な扱いかよ、というので僕は“テラー派”です。
 ほんっと、前半の女の子たちの会話がつまんねーつまんねー、みんなここでトイレに立ってたが正解だよと。寝ていいとこだと。グラインドハウス映画でなく文芸映画が始まったのかと思ったよ。面白くなるのかと思って見てても面白くならないところがミソなのだ。ひどいミソだ。
 でも後半はウソのように盛り上がる。こんだけ盛り上げられるんだから、前半であんなひどい落差トリック作んなくてもいいじゃん、と思うのだが、これもタランティーノ的には面白いんですかね。ま、雰囲気あるからいいですけどね。なかには可愛い女の子もいますし。
 で、後半である。あ、題名はブレットプルーフ=耐弾仕様の洒落でデスプルーフ=耐死仕様のスタントアクション用自動車のことだそうです、そんな言葉あるんかいな。運転席をロールケージで堅め、4点ベルトでドライバーを固定し(助手席には保安部品はない。シートもないし)、100マイルで激突しても生き延びられる車のことだそうですが、運転席にヘッドレストがなかったよーな気もする。
 ともかく、本作がクルマ映画であることは中盤まで伏せられたままなのです。僕は全然予備知識持たずに行ったから、それまで「俺は何を見てるのだろうか」と悩んでいました。
 wikipediaによると、最初に登場するデスプルーフ車はシボレーノヴァ1968だそうですが、古い車のことは知らないです。ただ、前のオーバーハングは切り詰められてるのに後ろがすごく間延びしてて、かつ後輪が腰高でホットロッドな感じが良い車でした。
 次に出てくるのは別の女性4人組の乗るマスタング。ポニーカーらしく、女性スタントマンが軽やかに転がす様子が良かった。そして“オシャレでスポーティだけど非力”って感じも良い。だから主役の女スタントマンが言う「アメリカに来たからマッスルカーに乗りたいの」という言葉が生きる。
 マッスルカー……俺が知ってるのはあれくらいだけど? と思ってたら、ヒロインが「ダッジチャレンジャー、それも1970型で440エンジンの!」と詳しい仕様を叫ぶ。さらに「色は白よ!」とだめ押し。おお、「バニシング・ポイント」のクルマじゃん! これはアメ車に弱くても映画好きならおなじみの名車!
 そしてそこに次なるデスプルーフ車が登場するわけです。これは同じ会社のちょっと先輩車ダッジチャージャー。エンジンは同じ440立方インチだそうです。動力的にはまったく同じマッスルカーの対決、結果やいかに? それにしても1970チャレンジャーは人気車種で日本でも300〜500万円で取引されてる、それを極めて乱暴なカーアクションに使っちゃおうというのはクルマファンとして見ていてドキドキしました。もったいなー!と。
 という映画なわけですが、ここまでで見当が付く通り、この映画は前半の酒場シーンと後半の田舎道ロケのカーアクション(あれはチェイスじゃないですね)シーンしかありません。すごく低予算です。低予算のハンデを低予算ならではの方法ではじき飛ばした、低予算だから出せた迫力、人力の凄みを見せつけて、ぐいぐい容赦なく盛り上げてくれます。この映画の後半では500人収容の劇場がまさに一体となって拳を握りました。いや、すごかった。


■映画館で映画を見る、しかもそれが割と当たりで観客席もちゃんと盛り上がる、ということはたまにあります。けど、今回は前後に宇多丸さんたちのトークが入り、個人個人が映画で得た体験を、宇多丸トークを媒介にして共有することができた。これが希有な体験でした。面白いことは誰かと共有するとより面白い、ということですね。ありがとうございました>宇多丸さん
 ほんと、映画を語るように小説なり本なりのことを語れるようになれれば、と思います。
 といってもこの「グラインドハウス」、日本では1週間しかやらなかったし米国でも不入りだったそうです。難しいですね。いま宇多丸さん推薦の押井守『勝つために戦え!〈監督篇〉』ジュンク堂渋谷店で買って読んでいるので、作品としての映画とはまた別に、仕事としての映画の難しさを慮っているところです。(押井監督のこの名著、最近続編が出たみたいですね。『勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉』

雑感。貧しくなりゆく世界で

■所用で銀座に行った。八丁目から一丁目に向けてカンカン照りの銀座通りを歩くと、猛暑のなか営業して歩いたことを思い出す。
 たった一年とか二年前なのに、銀座の風景はもう変わっている。中国人観光客が今日はあまりいない。もしかして人気なくなったのかな? いや少人数のグループはいるな。高級車が路駐してるのも相変わらずだ。アストンマーチン(DBS?)とジャガーXFが並んで路駐してるなんて銀座らしくていいじゃないか。でもそこの店がH&M、GAP、ZARAっていうのが世相だなァ。ユニクロも銀座中の店と比べても流行ってるし。しまむらが銀座に出店する日が来るかな?


■買い物するときは郊外へ向かうようになった。いま住んでるとこは前のように都心じゃないので、ターミナル駅へ出るよりも郊外の量販店のほうが近いから。国道を下るとヤマダ電機とかがいっぱいあるんだよね。
 でもヤマダは、在庫がたくさんあるのに種類が少ない。ヘッドホンが欲しいとしたら、色は選び放題だけど、たとえば「右と左のコードの長さが等しくて、比較的長いの」とかって選ぼうとすると皆無だったりする。メーカーが違っても形や機能は一番売れる同じ型ばかりで、選べるのは色や模様だけなのだ。どこのメーカーも一番売れる型しか作らないし、店も一番売れる型しか仕入れないのだ。これじゃこんだけ売り場面積があっても、事実上一種類しか商品がないってことでは?
 郊外店だからそうなのかと思って、日本総本店を名乗る池袋の三越跡に行ってみた。やはりここも、売れ筋しかない。こんだけ広いんだから少量でも多品種を置けばいいのにと思うが、素人考えなんだろうな。ライバルのビックカメラはいまだ多品種の品揃えでがんばってるみたいだけど、それでもやっぱりちょっと変わった商品は少なくなった。
 量販店に求められてるのは安さだけなんだろうか。選ぶ楽しみはもうないのか。たしかにヤマダとかはポイント含めれば劇的な値引きを敢行してて、価格コムより安いから事実上日本で一番安いんだろうけど…。


■別の日は高島屋に行った。さすが日本一の百貨店。量販店とはまったく違って店内の雰囲気は優雅だし、これはつまりこの雰囲気も商品の一部であり、商品の価格に転嫁されてるわけだよね。百貨店で割高な商品を買ってくれる富裕層がいるおかげで、僕みたいに何も買わない人も好い雰囲気に浸れてうれしいです。日本が階級社会だった頃の名残なんだねえ。
 て、なぜ今更僕がそんなこと言うかというと、同じ商品でも富裕層と庶民層は違う値段で買ってたってことを思い出したからなんだ。富裕層は百貨店の外商で買う。庶民は商店や市場(いちば)で買う。同じ商品であっても市場(しじょう)が違えば価格は違っててもよかった。一物一価ではない。同じ商品でも払える人は高い値(あたい)を払っていた。もっと言えば、富裕層には高い値を払う義務(?)があった。値切って買ってはいけなかったのだ。
士族の商法」という言葉がある。幕府瓦解以後に商売に手を出して失敗する元武士(士族)を揶揄したものだが、これはつまり、幕府時代の武士は近代的な会計から無縁だったことを示す。買い物は、商人を呼びつけて商品を持ってこさせ、買う側が適切と思う値を一方的に与えるだけだった、と読んだことがある。これが売り手にとって市価より高ければよいが、往々にして勘違いの値付けをされるので武士(殿様)相手の商人には悩みの種だった、とも。
 逆に言えばこれは、安く買ってはいけない、買う側の矜恃を売り手に示さなければならない、という規範があったとも言えよう。さすがに明治以後はこういう商習慣は廃れていくのだろうけど、買う側にも規範があるというノブレス・オブリージュ的な思考はつい数十年前までは残っていたと思う。それがとくに顕著なのが富裕層市場ではないかと。かつての百貨店の外商というのは昨今のデフレ下の営業マンとは違って、「私の見立てでお客様にふさわしい商品をお持ちしたのです。お気に召しますか?(お気に召さないとしたら私の見立て違いでしたか。お客様はこの品にふさわしくないですか)」という高飛車な、ある種の勝負のような仕事だったのではないかと思う。
 今、価格コムに代表されるネットの標準化力によって、価格は市場全体で下方へ下方へと落ちていく。ちょっと前なら専門店でしか買われなかった高級オーディオの類も量販店に並ぶようになった。贅沢品の安さを査定して買うってどうよ?と思う僕は世間からズレてるのだろうか。


■クラブ「アシッドパンダカフェ」の高野政所さんは鋭い人で、昨日書いた「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」中の「サタデーナイトラボ『タマフル的2010年最新クラブレポート』【後編】」では、こんな鋭いことを言っている。童貞をフィーチュアしたクラブイベントについて触れたくだりで。

「若いうちからセックスばかりしていると、良い表現者になれない」(25分50秒あたり)

 異論も多かろうが、僕はこれ、ホントだと思うよ。ていうかこれがわからない人、若いうちからセックスに不自由しなかった人は表現なんかしなくていいし、ちゃんとした“社会の一員”として暮らしてくれってことなんだよな。政所氏も宇多丸さんも、はたまた童貞思想の開祖ともいえるみうらじゅんも、当たり前だけど僕は支持しますよ(もっとも「こじらせる」という問題もつねにあるわけだが)。
 うーん高野政所、信頼できる男だなァ(声だけかもしれないが)。


■引っ越したのにカードだとか金融機関の住所変更をしてなかったので慌ててする。楽天に代表される新興ネット企業のカードは全部ネットで制御できるので楽だ。こんなんで与信になるのかとも思うが。
 反対に既存の金融機関は「届け用紙を郵送します」とかって、まだるっこしいことこのうえない。最悪だったのが某銀行系証券会社。某銀行の支店担当者を通してアカウントを作り、金融商品を買っていたのだが、「住所変更は弊社ではなく銀行の支店窓口へ申請してください」ときた。それっていったい何なんだ? 俺は銀行へは住所変更の届けはとっくにしてるんだが、証券会社さんの口座がなかなか住所変更してくれないから電話したんだけど。
 まあ世の中、いろんな大人の都合があるんだろうけど。たぶん僕も会社にいた時はこんなふうな内輪の都合をお客様に転嫁してたんだろうけど。大企業ってのは…あーあ、と思うのだった。士族の商法、という言葉をここで思い出したんですよ。