衝動——人を感動させるものは何か

 ニュースをほとんど見ない、見るのは「ゲゲゲの女房」の2分前ていどなんだけど、それでもわかるのは民主党代表選に小沢一郎が出馬することをマスコミ全員が嫌悪してる、なんとしても落としたがってる、ってことだろうか。
 なんで?
 日本の景気がボロボロなのに「消費税上げます」なんて口走った首相が、なんで「望ましい」の? 全然わからない。幕末なら、あの首相はあのひと言で官邸門外で首斬られてたんじゃないかな。挙げ句の果てに何の決議もできない議会を3年も放置するつもりなんて、万死に値するって。それが「首相がコロコロ変わるのは望ましくない」なんて理由でマスコミから支持されてる? マスコミってやっぱバカ? 「妖界は 水木政権 ゆるぎなし」? それはけっこうなんだけど、人間界はすでにぐらぐら揺らいでるんだから。超ドッグイヤーの幕末なんだから。「任期中は何もできません」っていうリーダー不適格者が首相に相応しいって、マスコミっていったい何なの……。
 などと、柄にもなくニュース見たり中吊り眺めたり日経新聞読んだりして頭に来ました。失礼、取り乱して。
 今日話したいのはそんなことではなくて、「表現衝動」についてです。ブログ「リストラなう」日記のほうで「無名人が本を出すには」というエントリを書き、「持ち込み原稿を読むのは苦痛だった」なんて泣き言を言ったのをちょっと反省したんです。
 モノになるかならないかわからない、完成度の低い原稿を読むのは辛い。これはもう動かしがたい真実だ。こういう、徒労にも似た作業に対して「未知の才能との出会い」とかを期待して前向きに取り組める人がいたら、正直そりゃ凄い、と思うよ。
 だけど、やっぱりそこには決して置き去りにできない大事なモノがある。もう本当に唯一無二の、他にはないモノとの出会い。それが「表現衝動」なのだ。


宇多丸さん激賞映画「SRサイタマノラッパー」が描いたモノは何か
 仕事してないので毎日もっぱら掃除炊事とかの家事をしている。ラジオを聴きながらやりたいのだが電波状況が悪く、iPodをラジオに繋げてPodcastばかり聴いている。会社に行ってた頃は聴く時間がなくてDLしたファイルが常に何十時間分も溜まってたが、今は新しいファイルが常に不足気味。そこで古いのをまた聴くわけだが、最近同じやつばかり繰り返し聴いてることに気がついた。
 一つは、2009年3月21日オンエアの「ザ・シネマ・ハスラー」、「SRサイタマノラッパー」の回(赤文字のリンクでMP3を聴けます)。
 これ去年聴いたときは「へえ、気合いの入った批評だな」とは思ったけど、実際に映画見てみようとは思わなかった。そもそも俺ヒップホップよくわかんねーし。
 しかし会社を辞めると決めてブログを書いてた頃から、何度かこのPodcastを聴き返すようになった。どうも気になる。ヒップホップに対する無知は相変わらずだけど。それよりなんで僕はこのPodcastに惹かれるのかが気になる。そしてDVDが出てから映画「SRサイタマノラッパー」を見た。やっと見た。何度も見た。そして繰り返し、またPodcastを聴いた。
 僕はこの映画を見ても、さすがに宇多丸さんのように号泣はしない。だけど、宇多丸さんがたびたび「こういうやつ本当にいるもん」「またこいつらと会いてぇ」と言う気持ちはすごくわかる。そして、ラストの焼き肉屋で突然始まるラップはやはり息を詰めて見てしまう。そこにはリズムの快楽はないし高揚もなく達成感もない。あるのは「やむにやまれぬ」としか形容できないモノが今ついに形をなした、名状しがたい迫力と緊張だ。
 宇多丸さんはよく「詩や文学からほど遠い最底辺の若者が、初めて自分の表現を獲得する、それがヒップホップだ」と言う。その瞬間の緊迫感が、「SRサイタマノラッパー」のラストでは鮮烈に描かれている。僕のようにヒップホップが嫌いだとしても、このシーンは見るたびに圧倒されて身動きができなくなる。この映画はフィクションだけど、まぎれもない真実の瞬間が描かれている。音楽としてのヒップホップは正直なかなか好きになれないが、この“ヒップホップの精神”はわかるよ。ていうか忘れてたのを思い出したよ。
 検索していたら、ラジオのこの回を録音して「SRサイタマノラッパー」のスチルと併せたものがYouTubeにあった。映画の雰囲気を見ながら宇多丸さんの批評を聴ける、なかなか良いファイルなのでリンクしておきます(ファイルは2つに分かれています)。
 
 


■MC紳士とMAD刃物「三十路の衝動」が歌い上げたモノは何か
 もう一つの頻繁に聴くファイルはこれだ。2010年5月15日オンエアのサタデーナイトラボ「タマフル的2010年最新クラブレポート」【前編】
 これは自由が丘でクラブ「アシッドパンダカフェ」を経営する高野政所(たかの・まんどころ)さんが最先端のクラブ事情をレポートする、と称して「アシパン」で行われるスットコドッコイなイベントの数々を紹介した回だが、これが何ともいーんですよ。政所さんの低音ボイスと飄々とした姿勢にはもう毎回ノックアウトされているのだが、このPodcastの聴き所は、ズバリ20分手前くらいからのラップ曲「三十路の衝動」。
 クラブ「アシパン」でデビューした、いい年こいた男2人のラッパー“MC紳士とMAD刃物”。彼らが歌う静かで切ないラップ「三十路の衝動」は、僕のようなラップ嫌いですら、いやラップ嫌いだからこそ、何度も魅入られたように聴き入ってしまう特別な曲なのだ。
 僕としてはPodcast宇多丸さんと政所さんの掛け合いとともに聴くのが一番楽しいと思うけど、すぐに聴きたい人はYouTubeが良いのかな。リンクを貼っておきます。
 
 どうですか。ラップになじめない、ヒップホップ門外漢の僕なのに、この曲は聴くたび涙が出ます。こないだ迂闊に電車で聴いて泣いた。バカですね。
 これはもうヒップホップとかのジャンルや形式を超えた、人間の尊厳にとって大切なモノを歌った名曲だ。すべての表現者が一度は必ず直面する問題を作品にまで昇華した希有なシロモノ。奇跡の作品だと思う。
「いつか生まれ変われるかな?/ラッパーになれるかな?」のリフレイン、そして繰り返し歌われる「衝動」という言葉。ここにすべての鍵がある。聴くたびにビンビン伝わるモノがある。
 人は誰しも欲求・衝動とともに生きている。「食う・寝る・ヤる」もそうだけど、同じくらい重たいのが「今の自分と違う自分になる」「他者に伝える」「他者から認められる」といった欲求・衝動だ。生理的な欲求じゃなくて社会的なモノだというのがミソか。もしかするとこれら社会的な欲求・衝動は、「ヤる(他者とつながる)」という原初的な欲求のバリエーションなのかもしれないが、現代社会で生きている僕たちは、これらの欲求・衝動に日々突き動かされ(衝き動かされ)、こづき回されて生きることを余儀なくされている。
 こういう衝動を満たすには、どうすればいいのか? 定職に就き職場に居場所を見つける。結婚し子どもを作り家庭を営む。こうすれば社会的に承認され、かつての独りだった自分(何者でもなかった自分)から「社員」「夫」「父」といった何者かになりおおせることができる。親に代表される“世間”は、こういう何者かだったら安心して迎え入れてくれる。“社会の一員”という言葉があるよね。あれだ。
 だけど、人間のうち何割かは「そうじゃなくて、もっとダイレクトに認められたい」という困った人がいる。そういう人が“表現者”となり、“夢(別名・呪い。(c)RHYMESTER)”を追いかけたり、何の役にも立たない“作品”とかを続々と生み出したりする。あるいは、衝動だけはあるけど作品を生み出す方法がわからず悪戦苦闘したり、どう見ても間違った方向へと突っ走って激突したり隘路に迷い込んだりする。
 人は「生まれ変わる」ことができない。きわめてゆっくりと何者かから何者かへと変わってゆくだけで、昆虫が羽化するようにある日劇的に変身することはできないのがヒトだ。だが、ヒトという生物は自分の意志で何者かへと変わることができる。蛹から成虫へ、幼獣から猛獣へとDNAの命令通りにしか変われない他の生物とはそこが違う。
「いつ」生まれ変われるかは知らないが、「ラッパー」にだってなれるだろう。現にこの2人、MC紳士とMAD刃物はラッパーになったじゃないか。格好いいラッパーかどうか、そんなこと知らないが、ヒップホップなんかに興味もない40男(四捨五入すれば50だ!)すら泣かせてるじゃないか。こんなに遠くまで届いてるじゃないか。
 この2人を「変わりたい」と思わせた「衝動」、こいつがライムに乗って僕たちのところに届く時、僕たちもまた突き動かされる(衝き動かされる)。元々彼らがどんな原因で「変わりたい」と思ったのかは問題じゃない。彼らを動かしたモメンタムが僕たちのところまで伝播するのだ。三十路かどうかも問題じゃなくて、というよりむしろ三十路だからこの衝動は彼らの中で練られ磨かれ純化され、いま鋭いエッジを以て僕らを突き刺すのだ。
 人間は大勢いる。まともな生き方をする人が多数派で全然かまわない。というかそうでないと困るかもね。でも、ごく少数のまともじゃない、衝動の大きすぎる者たちが、なんだか悪魔的な「表現」の魅力に取り憑かれ、世間の大半からの承認に背を向け、自分だけの基準で承認を勝ち取ろうとあがく。
 降って湧いた幸運が人を変えるんじゃない。“意志”をもって“あがく”ことだけが人を変える。その過程が内なる衝動に忠実であればあるほど、見る者聴く者を衝き動かさずにはいないだろう。そのすべてのプロセスが5分という短時間に凝縮されたのが「三十路の衝動」という曲なのだと思う。


■すべては「表現衝動」を大切にするためにあるべきだ
 僕に「表現衝動」という言葉を教えてくれたのは、九州でファシスト運動体「我々団」をやっている外山恒一さんだ。2007年の都知事選に出馬して衝撃の政見放送で話題になった彼。
 いやもちろん「表現」という言葉も「衝動」という言葉も知っていたけれど、「表現衝動」が人間にとってどれほど大切なモノかをリアルに見せてくれたのが外山恒一なのだ(公人なので以下敬称略。ところで今この政見放送を見ると「やっぱり凄いな」と思う反面、「ああ、何年経ってもこれに夢中な俺ってバカだな」と思うネ)。
 外山恒一の政治運動は政治運動であると同時にある種のアートであり、アートの悪魔的な力を以て人を動かすという、近頃の政治家にあらざる非常識な運動だ。彼自身が言うように、彼について行く人はきわめて少数だ。さすが「我々少数派」を名乗るだけある。
 だがそれでいい、と彼は苦しみながらもそのスタイルを変えない。彼自身をメジャーにする戦略戦術は可能だろう。だがそれで彼の出発点となった衝動が曲げられたら。それはいかん、ということで外山恒一は妥協なき今の運動スタイルを貫いている、のだと僕は思う。僕は彼が好きだ。
 これは別に政治運動に限ったことじゃなくて、むしろ商業出版などエンタテインメント市場でもう一度腰を据えて考えるべき問題だと思う。「リストラなう日記」で「無名人が本を出すには」では、「情熱なんかの話はしたくない」と身も蓋もないことを書いたが、それは一面心の底からそう思うのだが、それでも、「これを読んでもらいたい」「読者を衝き動かしたい」「認められたい」という欲求=情熱は大切なのだ。むしろ、本を出すとかブログに載せるといった手段は、すべて最初の「衝動」をストレートに他人に伝えるための手段として従属するもので、そこを目的とはき違えるとダメなのだ。
 伝えたいことがある、いや伝わらなくてもいいから表現したいことがある。それでいい。それを、なるべく伝えたいので校閲して誤字脱字をなくす。読みやすいように工夫する。大勢に読まれたいと思ったら宣伝する。本にするならどういう方法がもっとも「この表現」に適しているか考える。
 よくある倒錯が「本にするために表現を変えましょう」というやつだ。僕は出版社にいたときはこのとてつもない本末転倒に気づいていなかった。大手出版社から人気漫画家が、単行本の台詞を変えてくれ、と言われて出版社を移籍する騒動になったと聞いた。出版社側の人間には、起きていることの意味がわからないだろう。だが僕は最近やっと、それがなぜ倒錯なのか理解できるようになった。外山恒一、ライムスター宇多丸、その他もろもろのメンターのおかげだ。「僕はどうしてこの作品に泣くのか」をじっくり考える時間ができたせいでもある。
 逆に、「表現したい」「伝えたい」という初期の衝動を大事にするためなら、他のどんなことにも妥協する勇気を持つべきだ、とも思う。誰かに読んでもらいたいなら酷評も甘んじて受けるべきだし、その他もろもろの不愉快なこととも付き合っていかなくては……おっと、自分でもなかなか実行できないことを偉そうに書いちゃってるな俺。あと、プロになった人が「衝動」で仕事すると周りが迷惑するってこともあるしな。お金の問題もある。それ一本で食っていくなら尚更お金は重要だ。ことさら表現衝動に忠実であろうとして食うこともできない、肝心の表現ができないってなったら……そう、「SRサイタマノラッパー」を作った入江悠監督が「上映を促進すればするほど食えない」というジレンマに陥ってるように、この問題は容易に解決できない(「"SAVE THE 入江悠監督"自主制作映画はつらいよ特集!!」)。
 新人賞その他の登竜門が、業界に新たな「表現衝動」の担い手を連れてくるシステムとして機能すると良いな、と思う。書きたい人と読みたい人をマッチングさせるというかね。
 バーターとカルテルマーケティングとプロモーション、ネームバリューにビッグバジェットといった“大人の事情”がすべての業界で幅をきかせてるけど、そうじゃないところからポッと出てきて僕らの心を震わせる何かがある。それは誰にでもある「表現衝動」、表現するのに何の資格も要らない「表現衝動」なのだ。それはまぎれもなく、僕らの目の前にある。


※なんて偉そうに書きましたが、そもそもライムスターとかこういうことをずっと歌ってきてるわけだよね。ここに「ONCE AGAIN」の歌詞があったけど、昔から宇多丸さんたちは一貫してるわけで。ああ、御免。でも僕もこういうことを書きたくなったわけで。

三浦半島、油壺一泊旅行

 
 僕は西日本で育ったので、こっち(東京近郊)の海のことは何も知らなかった。ちょくちょく海に遊びに行くようになったのは、度付きのマスクとフィンを買った7年くらい前からだ。
 海道具を買って最初に行ったのが、ここ三浦半島・油壺の荒井浜だった。その頃から憧れていた宿が、ホテル京急油壺観潮荘だ。京急グループが経営する、ちょっと古い観光ホテル(いや、いまwebサイト見てみたら五十周年記念とか言ってるから「ちょっと」どころではない老舗だね)。
 いつかここに泊まりたい、と思ってたのだが、今回ついに実行したのでその件を書きます。


■油壺海岸とわたくし
 冒頭のグーグルマップの「+」をクリックして縮尺を上げて挙げて見てほしいのだけど、油壺は三浦半島のどん詰まりからさらに西に向かう小さな半島部分にある。半島突端に「京急油壺マリンパーク」と表示があるが、これは京急が経営する水族館である。遠くからこの半島を見ると、切り立った半島突端部のてっぺんに白くて丸っこい建物が見える。これがマリンパークの大水槽がある建物なのだ。
 駐車場を挟んで手前右にあるのが、今回のホテル京急油壺観潮荘だ。いまや油壺にただ一つの観光ホテルだ(かつて油壺観光ホテルという小さくて趣のある宿があったが昨年取り壊され、現在は更地)。
 このマリンパークと観潮荘を中心に、油壺には3つのビーチがある。
 公営駐車場にある油壺バス停から歩いて、まず右手の斜面を降りると「横堀」海岸。小網代湾に面してて、小さいが居心地の良い浜だ。海の家もあるし。小網代湾にはシーボニア・マリーナというヨットハーバーがあり、夏休みの土日ともなると若者を満載したクルーザーが頻繁に出入りしているのがよく見える。
  小網代湾と横堀海岸
 同じ道を左手へ、鬱蒼とした木立の間を伸びる道へと行くと、油壺湾を見下ろしながらくねくね歩いた挙げ句「荒井浜」海岸に出る。今年は入り口に民宿の大きな看板が出たりして、油壺の3つのビーチでは最も人出も多くメジャーな浜だ。かつては城ヶ島との間を結ぶ観光船も発着していた。海の家が4軒あり、日本の渚百選に選ばれたとか、入り江が西を向いてるので夕陽が綺麗とか、晴れてれば富士山も見えるとか、ともかくデラックスな浜だ。
 前述の通り、僕はここにスノーケリングしに通っていた。残念なことに最近は海藻が繁茂してしまいスノーケリングにはあまり向かないビーチになってしまったが、当時は透明度が高く、魚影も濃くて楽しい海だった。今でもコンディションの良い時もあろうとは思うのだが、最初の印象が強烈すぎて、現実が記憶の中の荒井浜にどうしても追いつかないね。
 最後が、道をどん詰まりまで進んで油壺マリンパークの正面入り口を右折し、駐車場の端から急坂を降りると「胴網」海岸。ここは横堀と同じくらいの規模で、海の家も1軒のみ(さざなみ亭)。ロケーションも横堀と同じく小網代湾を向いているのでヨットやレジャーボートの出入りが多い。
 夏の盛りはそれほど目立たないが、秋口になって一般海水浴客が減ると、ヨットハーバーからジェットスキーがわらわらと湧いてきて、荒井浜などへ上陸して一服していく。ビッグスクーターのようにうるさいステレオを鳴らし、スノーケラーや釣り客への迷惑を顧みない様子から、僕は「暴走族」と呼んでるが、彼らにしてみれば高価なジェットスキーも年に何度かしか稼働させられないのだから、暖かいうちに乗っておこうぜ、というところなのだろう。静かで控えめなシーカヤックの人たちとちょうど正反対だ。
 こういう風俗を見ることのできる油壺海岸が、僕は大好きだ。
 油壺を含む三浦半島周辺にはヨットハーバーがいくつもある。崖の上に誰が所有してるか知らないが大きな屋敷があったり、道中に古いリゾートマンションがあったりと、どこにでもある海岸の町とはちょっと違う風景なのだ。戦後すぐ、高度経済成長が始まる前からこの一帯は東京の富裕層がヨットを繋留するリゾートとして機能してきたからだろう。京浜急行が沿線を開発し、品川から大勢の都民を三浦半島へと運んだのだね。
 今のように頻繁に三浦半島へ遊びに来る前は、僕は2つの印象しか持ってなかった。1つは40年近く前に見たNHKドラマで、フランキー堺が「油壺の何とかさん」と連呼していたこと。題名とか全部忘れたが、フランキー堺主演だからちょっとコミカルな都会風俗のドラマだったに違いない。東京にいる彼から見ると、油壺に住む誰かはちょっと格が上のような印象だったと記憶している。
 もう1つは10年ほど前のことだが英国人ルーシー・ブラックモアさん事件だ。彼女の遺体が遺棄されていたのが逗子市だか三浦市の海岸にある洞窟だったということ。また、事件の容疑者はリゾートマンションを所有する富裕層だったということ。ニュースを聞いた当時は具体的な印象を結ばなかったが、実際に逗子や葉山、油壺にびっしり林立するヨットのマストを見ていると、「これだけ金持ちがいたら一人くらい不埒なことをするやつもいるな」と思ってしまう。そして油壺の海岸を歩くと、軟らかい崖を海水が浸食した海蝕洞がいくつもあるのに気づく。だからなのか三浦半島の浜辺は砂が黒い。昨日とか、灼熱の太陽に焼かれた砂は裸足だと火傷するくらい熱かった。
 荒井浜の近隣には東京大学の研究施設がいくつかあるのも印象深い。東大がいつここに施設を作ったか知らないが、その古びた外観からすると最近ということはないだろう。なぜ油壺なのか。教授陣に油壺になじみのある人がいたんじゃなかろうか。経済界の富裕層に混じって政治家とか作家とか教授が東京から避暑や避寒に訪れた歴史のある場所、油壺、そんな気がするんだね。もし戦前から別荘地だったとしたら、士官クラスの軍人とかも利用してたかもしれない。武山駐屯地や横須賀港も近いし。
 僕はそういう古いリゾートの面影、歴史の蓄積を見ることができるので、油壺界隈が好きなのだ。


ホテル京急油壺観潮荘とわたくし
 油壺の海でスノーケリングした後、帰る前に観潮荘へ寄って風呂を使うのが大好きだった。ここには立ち寄りで利用できる「海洋深層水露天風呂」があって、小網代湾を見下ろしながらジャクジーで身体を温められるのだ。僕のように終末の海水浴日和にだけここを訪れてると「使える立ち寄り湯」以上の印象にならないのだが、今回宿泊してみていろんなことがわかった。非常に面白かったのです。
 ちなみに今回泊まったのは、ネットでふと見てみるとキャンセルが出たのか1部屋だけ空いてたから思い切って来てみました。先週は西日本、今週は近場で泊まりと遊んでばかりいる印象ですが、ほんとはそんなに遊び人じゃないんで。
  観潮荘の正面
 夕食の折、お膳に出ていた観潮荘の箸袋には「政府登録国際観光旅館」と印刷してあった(ちなみに裏面は「油壺音頭」「あゝ新井城」の歌詞。嬉しいね)。最近は「政府登録」なんて仰々しい肩書きはすっかり見かけないけど、この観潮荘が昭和時代のモダンなホテルで、また当時の格式がそこそこ高かったことがわかる。
 フロントやロビーは現在リノベーション中なのでちょっと簡便な印象。去年だか来たときは地下の大浴場は受付も地下にあったし(現在は1Fのホテルフロントで受付)、ホテルにはもう一つ宿泊でない出入り口があって立ち寄り客はそっちを使っていた。土産物屋コーナーがあったはずだが今は休止中(マリンパークのスーベニアショップが使える)、大浴場には回数券があって買おうかどうか悩んだのだがそれも今は廃止。いろいろリノベしててまだ過渡期で大変な感じ。
 今回泊まった部屋は1階の端っこなんだが、不思議なことにフロントから一度階段で2階に上がり、細い廊下をしばらく歩いて再び1階に降りなければならない。この構造は何?と思ったのだが、どうもこっちのウイングは増築したか何かで本館との連絡が悪いようだ。ちなみに部屋付き露天風呂のプランもあるのだが、そういう部屋は本館1階みたいです。ウイングの端っこでフロントや食堂からもっとも遠い部屋だったのでいっぱい歩かされたが、小網代湾と横堀海岸を見下ろす眺めも良く、不便とはいえ面白かったので僕は満足だった。少々不便でもリゾートは海ビューでないとね。駐車場ビューとかは悲しい。
 部屋はかなりランクが低いものらしく、この手の旅館ホテルにつきものの海に面した窓辺の応接セットとかは省略。部屋からいきなり窓でした。プラスチックのバスルームと狭いけどシャワートイレが付属。どっちも何度めかの改修で付け足した感じ。冷蔵庫はかつては有料の飲み物が入ってて、抜くとフロントでカウントされたタイプのもの。今は有料の飲み物は用意してなくて空なので、2階踊り場にある自動販売機で買うか、持ち込んでよいってことなのか。
 内装が僕にはとてもグッと来て、手塚治虫ブラック・ジャック』に出てくるモダンなホテル、って感じなんだな。化粧合板を多用した安上がりでゴージャスな作り、カーペットは多くの客に踏まれ、モダンな照明が経年劣化でくすんで、どれもいい具合に古びていた。昭和時代から何も変わっていない、ドアを開けるとあの頃の空気が流れ出るんじゃないかという錯覚すら感じた。
 食事は夕食・朝食ともに本館2階の大広間で摂る。お膳に座布団、伝統的な旅館の食事が供されるようになってて、ここは三崎が近いのでマグロ料理が売り物、手元で焼くマグロステーキ、マグロと近海魚の刺身、手元で温めるマグロ鍋、エビその他天ぷらが夕食のメニュー。朝食は塩鮭、マグロ中落ち、マグロと生姜の佃煮、大根おろしちりめんなどで、どっちかというと朝食のほうが美味かった。ご飯が美味しくなるおかずばかりでおひつをおかわりして4杯も食べてしまったくらいだ。サーブしてくれたおばさん、ありがとう。
 大広間にはステージがある。団体客の大宴会とかで使ってたのか。コンパニオンとカラオケ、といった遊び方もあったんだろうな。今は緞帳も下りたままで使ってる形跡はない。
 客層は、今は夏休みだから比較的小さな子の多い家族連れが中心だが、初老から上のご夫婦、あるいは男性客ばかりなどのシルバー層も多かった。昨今こういう化石のようなホテル旅館を積極的に利用する若者層はいないと思う。メリットを探すとしたら、大勢で大騒ぎするから、子どもがいてもOKだから、コミコミで価格が魅力だから、あまり考えなくてよくて楽だから、といったところだろう。


■斜陽、だけど楽しくやれるんじゃ?
 今回、ホテル京急油壺観潮荘をwebサイトで予約して知ったのだが、なんとこのホテルは開業50周年なんだそうだ。全部が全部、半世紀前の設備じゃないと思うが、そりゃ古いわけだ。
 正直、今回泊まって思ったのは、「一部を簡略化したり廃止したものが多くて、フルスペックのサービスじゃないな」ということだった。土産物屋の廃止、大浴場受付や回数券の変更などがそうだ。また、小さなことだけど部屋の冷蔵庫に有料ドリンクがないことも。
 有料ドリンクは飲まないのでもともと不要だし、大浴場は受付を廃止した代わりにロッカーを新しくしたり、平日は京急の駅から無料シャトルバスを出したりして、サービスの向上を図っている。この歴史あるホテルも不況と闘いながら生き残りをはかっているのだ。
 すぐ近所にあった「油壺観光ホテル」は先年閉館し昨年取り壊された。こちらはどこかの企業グループに属していたとかではなかったらしいので後継者難だったのかもしれないが、ホテルを使って油壺に泊まりがけで遊びに来る客もそう多くはいなくなったということだろう。ちなみに観光ホテルの在りし日の姿は、遠景をグーグル・ストリートビューで、上から見たとこはグーグルマップの航空写真で見ることができる。
 サービスはソフト面でもいろいろリノベ中らしく、食事時の大広間はスタッフがやや足りないのか注文がスタックしていることがあった。大浴場は朝9時(チェックアウト1時間前)まで使えるのだが7時台に入ったら清掃の真っ最中だった。いずれもちょっとした齟齬だが、かつて景気が良かった頃はこういうことはなかったんじゃないか?
 いま日本は国中がリノベの真っ最中だ。企業のリストラもそうだし、テレビ・ラジオでは広告収入の減少をカバーすべく通販番組など独自マネタイズ企画が目立つ。雑誌では取材費が出ないのか、ネット記事の引き写しが目立つ。さらにテレビやラジオが雑誌の記事をただ読み上げて感想を述べるだけなんてコーナーを作るものだから、情報が出口なく環流してる印象だ。
 今日、同じ大広間で朝食を摂ったよそのご家庭の子どもさんたちだが、彼らは将来、油壺で過ごした夏休みをどう思い出すのだろうか。なんだか建物は古くて、お父さんお母さんは疲れてて、サービスはどれもセコかった、なんてことになるのだろうか。
 いや、そうじゃない、きっと楽しかった記憶になるだろう、と思う。食事はそう豪華じゃないし注文も遅れ気味だったけど、サーブしてくれるおばさんたちは優しく気が利いていた。建物は古いけど歴史があるわけで、昭和歌謡の匂いのするホテルはもうちょっとしたらぐるっと一周してオシャレになるかもしれない。親たちは疲れてたかもしれないけど、この時代に小さい子を持つ親はみんな疲れてる。とくに今年は猛暑だし、土曜に来て海で遊び、一泊した日曜も帰るまで海で遊ぶんだろうから、そりゃ疲れるさ。
 横堀海岸から小網代湾を出入りするクルーザーを見ててもそう思った。若者を満載し、船内で飲み会をやってる船が目立つ。だが、せっかく船なんだからもっと遠くへ行けば、せめて東京湾側に行けば広々と大海原が楽しめるんじゃないかと思うのだが、どうもみなさん小網代湾からなかなか出て行かない。そう、どうせ飲むだけだからマリーナの近くの海面でいいわけで、さらに夕暮れが近いからもう遠くに行きたくない。浜辺で海水浴してる(僕のような)貧乏人を見ながら飲むほうが楽しいじゃないか、というのかどうか知らないが、船のくせに動かない、ヨットのくせに帆走しないのばかり。
 いや、それでいいんだと思う。
 フルスペックの遊び、フルスペックのサービスは時代にそぐわない。
 それを強く思ったのは、ホテルの隣の京急油壺マリンパークを訪れたときだ。実は観潮荘に泊まるとマリンパークに入園できるのである(正規入園料は1700円!)。
 
 iPhoneで撮ったのでぶれぶれだけど、これはマリンパークのイルカ・アシカショー。なんとプールは屋内にあるので年中快適に見られる。
 マリンパークは観潮荘に劣らず古い施設だ。飼育してるチョウザメが40歳近いというのでもしやと思ったが、Wikipediaによると1968年開業とか。42年じゃないか。きっと開業当初の観潮荘とマリンパークは地域最強のエンタテインメントだったに違いない。
 いまマリンパークを見ると、近頃流行の水族館と違って大きな水槽はなく、最大のものが2階の円形回遊水槽で、そこに展示されてる大物といえばメジロザメ、ノコギリエイなどなど。ジンベエザメやマンタを巨大水槽に泳がしたり、オキゴンドウなどクジラをラインナップしたりといった派手な展示が主流の最新水族館からすると地味で、施設も古いのは否めない。だけど何か捨てがたい魅力があるんだよね。
 今年オープンした屋外施設「かわうその森」は、去年まで海洋深層水の施設があり深海生物の展示をしていた場所が空いたとこに新設されたという。いいと思う。大規模設備で見せる虚仮威しじゃない、手作りでアットホームな水族館があってもいいじゃない。僕はマリンパークのちゃっちいところが好きだ。3頭のイルカと2頭のアシカが見せてくれるショーは、意外と凝った筋立てで面白かったし。
 この2つの施設は、長い長い撤退戦を戦っているんだと思う。それは実は日本経済全体もそうで、僕が働いてた出版業界もそうだし、電波マスコミも、新聞も、衰亡していく過程にある。人口が増えない日本の経済は、もう全体に浮上する可能性などないのかもしれない。有望なのは老人産業・病人産業・葬式産業だけかもしれない。
 でも、少ないながらも新しい生命は誕生するし、ホテル旅館で夏の思い出を作る子どもはいる。水族館には若いスタッフがいて、ショーのイルカたちも時が来たら引退して、若手に新陳代謝しないといけない。
 ちょっとうまくまとめられないのだけど、今、この局面で、できることを。なるたけ楽しくやる。それが素敵だと思った。

水木マンガで育ってきた

■掲載時の空気を缶詰にした『オリジナル版 鬼太郎』
 NHK連続ドラマ「ゲゲゲの女房」が盛り上がっている。たしか9月いっぱいで完結だよね。今週は水木先生が南方へ出征していた頃の回想、片腕を失ったエピソードから名作「総員玉砕せよ!」が生まれるまでが描かれるみたいなので大盛り上がりだ。
 水木先生が「総員玉砕せよ!」を描いた件については数年前にNHKでは香川照之主演で単発ドラマ化してた(「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」)。香川照之演じる水木先生も素敵なのでぜひご覧ください。そしてこのドラマは塩見三省演ずる下士官が本当に良いです。おそらく後年、このような上官が水木先生の悪夢に出てきて先生はうなされたのではないでしょうか。強くデフォルメされていると思いますが、それくらい強烈です。
 話がちょっと逸れてしまった。こんな重たい話をするつもりじゃなくて。
 実家に帰ったついでに神戸に寄り、兵庫県立美術館で開かれている「水木しげる妖怪図鑑」展を見た。ドラマでも話題になっていた、アシさんたちが根詰めて描いた点描画の原画を思う存分見られる貴重な機会ということで。歌川國芳の錦絵とか、水木マンガのネタになった古典も展示してあって素敵でした。そのスーベニアショップで買ったのがこれ。
 
 今年の春に出た文庫版『少年マガジン/オリジナル版 ゲゲゲの鬼太郎(1)』なんだけど、雑誌掲載時の扉やあおりネーム、グラビア企画などが再現されてる素晴らしい本だ。これまで何回鬼太郎の単行本を買ったか覚えてないが、これは新たに買っても損しない、決定版だと思う。全5巻、しかも作品は初出順に並んでいます。GJ!
 ドラマに出てくる水木先生やアシさんたちがひーひー言いながら描いていた原稿が、どんな風に掲載されたか、1週は何ページだったか、どこでアイデアに詰まってどこで急展開させたか、そういったリアルな作家の痕跡が残されてるようで、とても楽しい本です。これを見ると、、従来の綺麗な単行本は漂白済みのように思えてしまいます。また、掲載時の昭和四十年代の空気が伝わってくる広告や懸賞企画も載っている。素晴らしい。ねずみ男が「百万円」と言ったときそれでどれくらいのものが買えるか、当時の子どもたちがどんなものを欲しがっていたか、懸賞の賞品などから類推してみてもいいよね。


■水木マンガの背景に描かれたモノども
 
 これは僕の実家の近所にある薬師堂。石仏の一つが薬師如来なのでこう呼ばれている。
 なんだか、水木マンガに出てきそうでしょ? 水木作品には、石仏とか古塚とか、不思議なフォークロア的な風景(先生が描いてた当時はそんな言葉なかったと思うが)がばんばん入ってて、「なんぴとも触れてはならない決まりなのです」とか、思わずうなずく台詞があった。
  こんなのとか。
 今でもやってるかどうか知らないが、僕が小さい頃、夏だったか近所のおばあさんたちがお堂に集合して念仏する、それを我慢して聞いたら終了後お菓子をもらえる、という日本版ハロウィンみたいなことをやってた。施餓鬼か何かのお接待だと思う。
 後に思春期を迎えた僕は、鬱屈して部屋から飛び出し、かといって行くあてもなく、よくこのお堂にわだかまっていた。ここはちょっとした丘の上にあたり眼下に田圃が広がっている。
 今も帰省するとお堂に腰を下ろして町の灯りを見下ろす(夏は蚊が凄いけど)。時間によると広島空港へと向かう旅客機が頭上を通過する。かなり高度を下げているので翼端灯やシルエットがはっきり見えて迫力だ。子どもの頃は航空機が飛んでるだけで珍しく、みんなで空を見上げたものだが。
 水木作品で、点描をはじめとする凝った技法で描かれる背景は、山陰の山奥の風景だったり、古い神仏・樹木・建築物だったりする。近代的なビルや金属製の航空機に点描が使われることはない(例外的に軍艦だけはけっこう描き込まれていますね。作者の好みかと)。水木先生が力を込めて描いた風物は、この四十年でどんどん失われていった。今やっと気づいたのだが、先生はそういうモノを描くのが好きだったと同時に、描き残さねば消えてしまうと知っておられたのではなかろうか。
 
 しつこくお堂の写真を。見るとわかるように、両脇に飾られているのは造花だ。生花だとこの猛暑で一日ともたないだろうから。石仏のうち左の三体は地蔵菩薩らしく赤い前垂れを着ている。深紅だったろうに、陽に焼けて退色している。祭壇の上の幔幕も赤かったと思うのだが、こちらは真っ白に退色している。
 都会に出て行って帰らない不孝者が偉そうに書く資格はないが、こういうものを地域で守り、維持していくのが大変になっているのだろう。それでもこのお堂は昔の雰囲気を残して立派に建ち続けている。ほら、ここでねずみ男が横になって休んでそうでしょ? いかにも水木先生が描きそうでしょ? 
 僕は故郷から出てって戻らないくらいだから、故郷に対していろいろ屈折した思いがある。だけど、こんなふうな水木先生が描いてきたモノに囲まれて育ってきたことは忘れられないしそれは誇りとするところなのだ。
 水木マンガを読むと、年々「かつてこんな風景が、確かにあった」と強く感じるようになってきた。その度に「ということは、妖怪だって実在したかもしれん」と思うのだ。妖怪、いたら楽しいよね。


■ちょっと憂鬱な史実を発見
 話は講談社漫画文庫『少年マガジン/オリジナル版 ゲゲゲの鬼太郎』に戻る。3巻の解説は荒俣宏氏でとても素敵な原稿なのだが、ちょっと気にかかる記述があった。引用します。

 ちょうどこの頃から経済成長期となり、お金が回るようになって、子供もたくさん本が買える時代になりました。もう、誰が読んだか分からんような貸本だの回し読みだのは、流行らなくなった。毎週でもマンガ本は買えます。おまけに、世の中がテレビを中心にまわりだし、生活サイクルが、お父さんの給料日と同じだった月間から、連続テレビ番組のつづきが始まる週間へと、切り替わっちまう。流行も週間サイクルで動きだしたんです。

 これって、つまりは漫画の隆盛も景気拡大のサイクルに乗ったから起きた現象であって、漫画それ自体の面白さが漫画を栄えさせたんじゃないってことを言ってるんだよね。事実、入魂の原稿、畢生の名作を出してたにも関わらず水木先生も貸本では食えなかったわけで、作品の質がシーンの隆盛を決めるのではなく、外的要因が食えるか食えないかを決めると言ってもよいわけで…。
 つまり、これから人口自体が減ってゆく日本の未来は暗いってこと。この頃から経済縮小期となり、お金が回らなくなり、子どもも大人も小遣いで本を買うなぞできなくなる、図書館も事業仕分けで減ってゆく。世の中はネット中心に回ってる、そんな時代が来るかもしれないってことなのサ。
 などとニヒリスティックになったものの、ちょっと居心地が悪い。僕にはねずみ男のような明るくポジティブなニヒリズムは真似できないんだなァと自己嫌悪なのだった。
 ま、面白いです、『オリジナル版 鬼太郎』。それは作品であると同時に、歴史を目撃する(史料)なのですから。

同窓会で45歳になった同級生たちと会った

■「青い珊瑚礁」から30年めの夏
 僕らが高校に上がった1980年の夏、巷では松田聖子のデビュー2曲目「青い珊瑚礁」が大ヒットしていた。余人に真似できぬ透明なハイトーンから始まる名曲だ。
 同時期、15歳(なんと同い年だ)のブルック・シールズが主演した同名の映画もヒットしていた。若いブルッキーが惜しげもなくまぶしい肢体をさらして見せる…といっても肝心なところは見せてないわけだが…セクシーな映画のイメージとあいまって、聖子の歌にも清純なアイドル歌謡とは違った妖艶な何かがまとわりついているように感じた、15歳の夏だった。
 それから30年経った夏、僕は「同窓会をやるから来ないか」との誘いの電話を受けた。なにも帰省ラッシュのお盆にやることもなかろうに、と思ったが、それは都会でブー太郎をやっている僕の感想にすぎないわけで、世間ではやはりお盆のほうが集まりが良いわけだ。これまで何度か同窓会の誘いがあったが盆暮れだったので参加せずにいた。今年はせっかく無職なんだから出てみるか、と猛暑の東京駅から「のぞみ」に乗り込んだ。
 岡山の市電通りが右に急カーブする城下(しろした)交差点にある小洒落たお店を貸し切りにして、同窓会は始まった。まだ16時、東京よりずっと西なので日も高い。東京は日没時間が1時間くらい早いのだ。これは冬場だと体感的には16時にはもう日が没するわけで、うつ病体質の僕なんかはひどく堪えるのだ。逆に日が長いだけで落ち着くわけだ。
 だが会場を見渡すと、どうにも落ち着けない。なにしろ27年ぶりだから顔を見ても誰だかわからないし、そもそも記憶力が悪くて名前を覚えていない。名刺をもらってやっと名前がわかるのだが、現在無職の僕には名刺がない(笑)。とくに、20人ほどの参加者のうち半数に及ぶ女子たち(もと女子、と言うべきか。いや、女子は何年経っても女子だな)がかまびすしく、僕には誰が誰だかわからないのに彼女らは僕のことをちゃんと覚えてて当時のあだ名で呼びかけてくる。この情報格差には萎縮せざるを得ないわけで。
 そこにドアが開き、遅れてきた誰かが入ってきた。一目でモノが良いとわかるロングスリーブのシャツ、シルエットの美しいパンツにエルメスのベルトを締めている。すらっと長身で歌舞伎役者のような整った顔立ち。「あれ、誰だ?」。そばにいる男に耳打ちして訊く。
「カマ子だよ」
「えーっ!! ○○かよ? まじ!?」。僕は思わずそう漏らした。で、遠くからそっと伺うと、たしかに当時の面影があるような。


■「カマ子」と呼ばれた少年、ナウ・アンド・ゼン
 僕が通った高校は私立の中高一貫校で、僕は高校からの編入だった。当時僕が住んでた学区は公立高校が選抜制で生徒たちは荒れていた。親は公立校に進ませるのを忌避し、少々無理して隣県の私学へ僕を進ませてくれたのだ。
 今考えるとたいへん学費の安い私立で良心的だったが、それでも同級生たちは家が裕福な連中が多かった。僕も例によってバンドなんかやってる連中と付き合ったが、家を訪れるとドラムセットや高価なアンプを持ってるやつが多くて驚くのだ。後で考えると、勤め人の子弟ではなく事業家や医者の子弟が普通の割合よりもかなり多かったんだな。みんながみんな裕福ではないが(事実、僕の家などはつましい勤め人だった)、なんとなく余裕があっておっとりした生徒が多かった。良い雰囲気の学校だったわけだ。
 その新しいクラスに「カマ子」はいた。中学から持ち上がった彼は、さっぱりした身なりでちょっとぽっちゃり気味の柔らかそうな肌が白い、今思うとたいへん可愛い少年だった。美少年、というやつだな。そして何より、周囲の女生徒よりも女らしい所作で、ハイトーンの女言葉を喋るのだ。
 生まれてからそのようなキャラを初めて見る、山出しの少年だった僕は唖然とした。どう形容してよいのやら。彼をよく知る、これも中学からの生徒がふざけて「どこで取れたんかの、あの生き物は」などとコメントする、それが妙に実感があっておかしかった。
 当時の彼(つい「彼女」と言ってしまいそうになるが)はもちろん学生服を着ているのだが、何人か仲の良い女生徒がいて、彼女らといっしょになってキャラキャラかしましく笑い合う姿は実に違和感がなかった。
 高校というとギャング・エイジも終わり頃だが、それでも男生徒の間には一目置いたり置かれたりといった強弱・軽重の人間関係が存在する。僕もそういうのにやや苦しみ、自分が落ち着けるコミュニティを探し出すのに時間がかかった。その間にタバコを吸って謹慎処分を受けたり、万引きで捕まったりした。子どものそういう反社会的行動は、ほとんどが「自分の居場所」を求めてのあがきなのだ。今ならそれがよくわかる。
 カマ子はそんな男子生徒のコミュニティとはやや違うところ、女子生徒枠というか、男子コミュニティにも女子コミュニティにも属しているような、どちらも属してないような、彼独特の生態系に位置していた。男子なら誰にも「何かで自分が認められたい」という承認欲求がありそうなものだが、彼はそういう衝動に振り回されることなく恬淡として、毎日仲の良い女の子たちと楽しく過ごしているように見えた。
 だが決してそうではなかったのだ。少なくとも、現在の彼の姿からはそうでないことが感じられるのだ。


■40過ぎた人生は顔に出る
 同窓会の宴が盛り上がるなか、幹事が「ここから近いので、ライトアップされた後楽園を散策に行かないか」と提案した。ふうん、それは良いかもね。12名ほどがタクシーに分乗してすぐ近所の後楽園に向かった。
 
 間違えて正面入り口ではなく駐車場側に入り込んでしまった。ここから入り口までは園の外周をぐるりと回らねばならない。だが、おかげで美しいものを見ることができた。水面に映る岡山城の姿は園内からは見えないのだ。
 
 やっと園内に入り、イルミネートされた後楽園を歩く。なるほど幻想的で美しい光景だ。だが写真には写らないもののたいへんな混みよう。そんなに広くない散策路に人が溢れている。中国語の会話も聞こえる。僕らは一団を維持できず、前後ばらばらになってしまった。
 女子グループが遅れている。反対に、カマ子はゆったりした足取りながら人混みを上手にかき分けて前へ前へと進んでいる。彼に近づいて「後ろを待ってようぜ」と言おうとしたのだが、後から後から人混みに押され、立っていると邪魔になるのだ。
 もうさっさと行こう、というニュアンスでカマ子が僕の背中に触れ、歩くよう促す。その手がとても柔らかく温かく、僕は暗闇のなかで赤面してしまった。
 高校の文化祭で、しっかりとメイクしてドレスを着た彼女(失礼、これ思い出すとどうしても彼と呼べない)の印象を思い出した。あれはほんとに綺麗だった。あれから30年近く過ぎたわけだが、その美人が暗闇のなか僕のすぐ側にいるのである。不覚にもドキドキしてしまいましたよ。
 やっと明るいところに出た。もう出口も近い。園内は無風だったのでみんな汗びっしょりだ。早く店に戻ってビールを飲みたいものだ。僕らは来た時のようにタクシーに分乗した。僕はまだドキドキがちょっと続いていたので、彼とは別の車両を選んで乗った。
 現在、彼は高度な専門職に就き、同時に大学で教鞭を執っているという。話をしてみると具体的でわかりやすく、また示唆に富んでいて面白い。案の定、この場でも女子たちが彼に、子どものこと、家族のことを相談したり質問したりしている。女性的な所作を見せることはもうないみたいだが、ユーモラスで当たりが柔らかく、どんなことでも話しかけやすい印象は昔のままだ。きっと男女を問わず、仕事の依頼者、また学生たちから信頼を置かれているに違いない、と僕は思った。
 後で知ったのだが、僕が第一志望の大学を落ちて広島の予備校へ浪人しに行った(それがまたいろいろ悪さを覚えて楽しい浪人生活だったのだが)頃、彼は現役で難関大学に入り、大学院を優秀な成績で出て、厳しい仕事をしながら学位を取得したらしい。ずーっと努力を続けてきているのだ。
 振り返って自分を見ると、同じ20数年間どんだけ努力したか、どれほど厳しい局面に自分を置いてそれを乗り越えようとしてきたか、比べると……恥ずかしくなる一方だ。
 同窓会の会場に戻ると、彼はまた自然に女子の一群に混じり、会話を楽しんでいる。誰もが自我に不安を抱える高校生の頃と違い、ここにいる全員がそれぞれリラックスし、お互いの「今」を披瀝し合っている。大病を患うなど、人生の大きな節目を乗り越えてきた仲間もいる。残念なことに亡くなってしまった同級生の噂も聞く。四半世紀も経てばそれなりにいろいろある。
 だが、その人その人が過ごしてきた年月は、隠しようもなくその顔に出る、と思った。とくに誰に知られることもなく積んできた努力は、この年代になると顔に出てしまう。自信が物静かな態度を、余裕が人への優しさを作らずにいないのだ。
 高校時代、彼の物腰を見て笑うことがあった。今思うとなんと馬鹿な振る舞いだったことか。そういうわかりやすいフラグの裏側には、他の誰よりも鋭敏で、相手を思いやることのできる豊かな感受性、そして静かに耐えることのできる強さがあったのだ。そういうものがわからない、そういうものの価値を知らないのが少年時代だ。いま、そういうものがどれだけ価値があるか、僕らは身を以て知りつつある。
 僕はもう一度、カマ子を見やった。かつてカマ子と呼ばれた少年の姿はそこになく、素敵にスタイリッシュな中年男性がいる。だがそれは「ちょいワルおやじ」などと手垢のついた消費アイコンではない。彼が自分だけの努力で獲得した大人の姿だ。いや彼だけではない、みんながそれぞれ積み重ねてきた20数年を背負ってここに来ている。僕は不覚にもちょっとウルッとなった。
 同窓会というとオヤジ同士のゴルフ談義、艶笑話を連想してしまうが、事実そういう話もみんなしていたわけが、それがそれだけに留まらないんだよね。じっと聞いてると、当たり障りのない話をしている当人の、実は当たり障りも山も谷もある人生が透けて見えてくる。その顔に刻まれている。これはなかなか楽しいイベントだったよ。
 忙しいなか素敵なイベントを仕掛けてくれた幹事に感謝。また来たい、と思う集まりだった。
 高校の3年間はただの3年間ではない。45分の3年ではないのだ。18分の3年という濃密な時間なのだ。僕は翌日、在来線で実家に向かった。
 
 車窓の両側にはこんな景色が広がっている。こういう風景のなか、僕たちは3年間、片道1時間の電車通学をしてきた。途中下車して遊び、図書館で受験勉強し、干拓地でタバコを吸った。いずれも忘れられないことだ。そう、彼は松田聖子が好きだった。ちょっとハスキーボイスな「青い珊瑚礁」をどこかで聞いた気がする。
 同様に、夜の後楽園を汗びっしょりになって歩いたのも忘れないことだろう。もしDNAがこういう記憶をも運んでくれるなら、二重らせんのどこかに刻んでおいてくれると良いのに、と思う。


■番外編
 
 読めますか? 地元の駅を降りたところにこんな石碑があります。これは普通ですが…
 
 下がちょっと切れてますが、この標語はいかがなものでしょうか。石に刻んで何百年も見せなきゃならないぐらい、この町では問題が大きいのでしょうか。さて。

帰省ラッシュに参加してくるよ

 今日から3日ほど田舎に行ってくるんだよ。高校の同窓会があるっつーんで帰ることにしたんだよ。
 明日の晩は実家に泊まる予定なんだけど、夏に帰るのは十年ぶり以上なんだよ。離れ座敷とか暑くてたまらんだろうという予測がいまから立ってるんだよ。そうめん瓜があるといいな、と思ったりするんだよ。
 ちなみに実家のある町の駅はこんな感じ。単線だす。
 
 これは冬に撮った写真なので物寂しさも一段とアップなんだが、夏に撮ってもたいして変わらないんだよ。
 それじゃあ、帰省ラッシュがどっち向きに混んでるのか知らないけど、行ってきまーす!

幕末のエッセイストたちへの共感

■風の強い日である。台風のせいなのか? 場所によってはまっすぐ歩けないほどの強さで吹いている。今日は外出しないほうがいいのか。
 外に出ないときは家事をしたり(直近のテーマは水周りの錆取りだ)、夕食の下ごしらえをしたりでけっこう時間が過ぎていく。もう中年も折り返し過ぎだから時間が過ぎる感覚が矢のようなのだ。これまで生きてきた累積時間との対比で今日一日の長さを感じている、というか、一日一日の重さがかぎりなく軽くなっていく。仕事もせず誰ともコミュニケートしない日々はとくに速く過ぎる。その軽さ、鴻毛のごとし。


■相変わらず読むものは野口武彦先生の著作だ。『江戸のヨブ—われらが同時代・幕末』(1999中央公論新社)はずっしりと読み応えのある、それでいて軽妙なエッセイ群だ。
 表題作のエッセイは大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)という無位の旗本について述べたものだ。野口先生は醇堂を大いに気に入っておられるようで、2005年には『幕末の毒舌家』(中央公論新社)というまるまる一冊を醇堂について述べた著作にもなさっている。
 醇堂は幕府瓦解(明治維新)の年を三十歳で迎えた。若い頃、幕府が行った若手・非役の幕臣子弟を臨時に抜擢する学問吟味の試験(国家公務員上級試験に相当するらしい)になんとかパスしたのはいいが、すでに祖父・父が役についていたため「三代現役で番入りは不可」というルールに引っかかって仕官がかなわなかった。実はそのとき祖父はすでに死んでおり、その死を秘して俸禄を不正受給していたのだという。
 最近、百歳を越えるめでたい高齢者が実はほとんど死んでいて遺族が年金を不正受給するために届けてないだけだ、ということが明らかになっているそうですね。こういうのは江戸の昔から日本の伝統だったわけだ。井伊直弼も首を切られて2カ月くらいは生きてたことになってたことだし。
 死ぬような努力をして学問吟味に受かった若い醇堂(二十四歳だった)はどれほど悔しかっただろうか。番入りにふさわしい力をつけ、有為の未来を持っている自分が、ただ生前の俸禄が高いからというだけで死を伏せられた祖父(これは醇堂の父の判断だったらしい)に負けたのである。醇堂は漢学のほか漢詩・和歌・狂歌俳諧を修め、さらに武道も剣・柔・馬・弓・砲術を学んだという。当今の大学生の就活にまさるとも劣らない努力。緊張すると下痢する体質や、胃酸過多でつねに苦い体液が口中に戻る心身症的な持病との闘い。彼の悩みはいずれも驚くほど現代的だ。
 こうして深いルサンチマンを抱えた醇堂は、その恨みを日々エッセイを書き溜めることにぶつけていく。残された膨大な原稿は、幕府末期の裏面史として、また幕末を生きた“志士ではない”人々の精神史として、野口先生をはじめとする歴史家から高い評価を得ている。


■もう一人、プレ幕末期のエッセイストが紹介されている。『反古のうらがき』という作品を残した鈴木桃野(とうや)である。幸田露伴なんかもその影響を受けたというが、野口先生の紹介のなかで僕がグッと来たのはそこではない。
 桃野のエッセイは化成期から天保嘉永あたりまでが対象になってるらしいが、この頃の江戸には武家で精神を病む者が多かったのだという。立派な教養を持ちながら時折激しい狂態に我を失うため屋敷の庭先の牢に暮らす友人。鼻が顔より大きくなった、死にたい、と泣き叫ぶ大名の姫君。布団の中にいると手がどんどん大きくなると感じて眠れなくなりついに大病を患った友人。いずれも身体症状ではなく幻覚の類らしい。
 つげ義春の作品…何だったか、「夜寝ていて背中のほうから巨人になっていくほど怖いことはない」という台詞があったと思う。「ゲンセンカン主人」だったか、夢を描いた作品群のどれかだったか。すごく似ていると思う。
 醇堂や桃野の文を読み、それが現代の僕たちが直面している煮詰まった状況とどれほど似ているか、改めて感銘を受けるわけだが、野口先生は「現代の東京とどうこうとは言うのも野暮である」と深追いしない。


■醇堂も桃野も、無役の旗本だった。醇堂は明治も半ば過ぎまで裏店で逼塞しつつ健筆を振るって生きたらしい。桃野は自身が五十代になって長生きだった父が死に、やっと家督を継いだ。役がついてさてこれからという時に突然死し、嘉永六年(1853)のペリー来航に始まる幕末動乱を見ずに逝ってしまった。もし生きていればどんなふうに幕末を描写したか、興味あるところだが。
 この二人はいずれも幕末のブロガー、と呼んでいいと思う。
 世界の大変動に対して機敏に反応しつつタフにスピーディに生きる人たちがいる一方で、無聊をかこち、やる気ナッシングだけど表現衝動だけは抑えきれない、そんな困った人たちが世界には必ずいる。警鐘を鳴らしたり卓見を述べるのではなく、些細な事実を書き留め、うつろう心象風景を文字に残す。ただそれだけの、誰かから顧みられることを期待しない行為。まさしくブロガーだ。日本語のブログは人口比を考えると英語圏よりずっと盛んだって話があるけど、江戸の昔からの伝統なんだからむべなるかな。僕も及ばずながらお二人のような困った人たちの末席につらなる者なんじゃないか、と自分で思ったり。


■ちょっと前まで僕が住んでいた雑司が谷なんだけど、「東海道四谷怪談」の舞台だったそうだ。赤い電車が外堀を走る四谷ではなく、雑司ヶ谷四谷町というところに民谷伊右衛門はおり、岩の死骸を戸板に打ち付けて面影橋のあたりから神田上水に流したのだという(『江戸のヨブ』所収「江戸文学の地下水景」)。
 雑司が谷というと長谷川平蔵の私邸が近隣の目白台にあり、お鷹番・お鳥見番の屋敷があり、という程度しか江戸とのつながりを知らなかった。雑司が谷霊園は明治になって無名兵士の墓地として始まったと聞いていたので、江戸期の人が葬られているのは都心から引っ越してきたのだと思っていた。鬼あざみ清吉とか小栗上野介忠順の墓所があります。
 そうじゃなかったんだね。こんなホラーの名作の舞台になってたんだ。ホラー映画「呪怨」が東京西郊の少し古い新興住宅地を舞台にしてたのを思い出す。鶴屋南北にとって雑司ヶ谷はそういう感じのロケーションだったのかな? もっとも雑司ヶ谷四谷町という町名は実在しないそうですが。
 無聊をかこっていると、なんとなく身体感覚が狂ってきて、直近のことどもがリアルに感じられず、数百年前の人々の息吹をなんだか熱くうるさく感じてしまう瞬間がある。うーん。
 そして小栗上野介は、幕府が近代軍の装備をするために幕臣全員の扶持の半分を召し上げるという大改革をやった人だ。いきなり給与半減ですよ。幕末、大リストラなう、ですよ。その金で軍艦を買い、横須賀に製鉄所を作ったんですね。醇堂たちのような、やる気のない、いややりたくてもやる事がない窓際幕臣は扶持半減から江戸城開城、瓦解に至る激動をどう見ていたのだろうか。

Red BullのMINIを見ると良いことがある

 某所で巨大なRed Bullの缶を背負ったMINIと遭遇。
 
 日本企業がF1から全然いなくなってしまったのに、このどこで生まれたからよくわからない飲料水のチームがF1で派手にやってるらしい、と聞いたのはずいぶん前だ。そうか、そして最近はこんな宣伝カーで都内を宣伝して回ってんのか。ふうん。
 と思って、写真を撮った。ベース車両は現行世代のBMW MINIクーパーで、屋根を半分切り、後席をつぶした宣伝カーになっている。
 右ハンドルで、後付のカーナビがセンターメーターのやや左についていた。センターメーターがものすごく大きい。この世代のMINIは運転したことがないな。
 写真を撮ったらドライバーらしいお姉さんが声をかけてくれた。「おひとついかがですか」。
 後席をつぶして巨大な缶の模型を搭載しただけではなく、元のトランク部分が冷蔵庫になっているのだ。そこからRed Bullを一本取り出し、プシッとプルタブを開けて手渡してくれた。
 ごちそうさまでした。
 これって、国産のオロナミンとかリアルゴールドと同じ類の、カフェインが入った炭酸飲料だよね。でも、国産品と比べると飲んだ後心臓がばくばくするというか、ちょっと効きが強い感じ。昼間からこんなアガッてどうする。