iPad2、そりゃ欲しいよ。けど…

今週のお題iPad 2欲しいですか?」
 ネットでiPad2のスペックを見ると、デュアルコアプロセッサが使われているのはすごいけど、他はたいしたことないな…と思う。メインメモリの大きさは非公表だし、解像度は1024*768とたいしたことない。
 僕は、サムソンのギャラクシータブを使っている。iPadの半分くらい、7インチ画面だ。世間ではこれをタブレットと呼んでいるが、実際中身はAndroid2.2なので「画面の大きいスマートフォン」にすぎない。タブレット的な動作はほとんどない。また、docomo回線で電話をかけることができる。


 ギャラタブがあるからiPadなんて要らない…と思うかというと、実は全然そうではない。
 他のタブレット様コンピュータを使っているからこそ、iPadが欲しくなるのだ。iPadが羨ましいのだ。


 ある講演で隣に座った人が、iPadを取り出してタッチ画面キーボードで器用にノートを取っているのを見た。同じことはギャラクシータブでもできる。だが、ギャラクシータブはiPadほどスムースに同じことができない。
 AndroidだからIMEはいろいろ選ぶことができるのだが、どれも満足なものがない。フリック入力も使えるが、iPhoneiPadの選べないお仕着せIMEよりも優れたものがない。辞書もよくない。ATOKが試用できるので使ってみたが、辞書はさすがと思ったがそれでも金で買うレベルじゃなかった。そして、触った感じがぎくしゃくする。画面を直接触って操作するデバイスだから、操作感は使用体験を大きく左右する。Androidもだいぶなめらかな動きのモデルが増えてきたというが、どんな局面でも一定のなめらかさを必ず確保しているiOS機と比べると、まだまだだ。指が乾燥する冬場はとくにそうだ。Androidで長文のメモを取る気にはなれない。
 iPadは使用体験がすばらしい。スペックではわからない使用感、リアルタイム感がある。Androidは結局JAVAなので仮想機械で動いているのだからリアルタイム感がどうしてもいまいちだ。音を制御するのが苦手で、音楽アプリも苦手だ。実用的な演奏ソフトはたぶん作れないだろう、という噂だ。また、音楽家プログラマAndroidで悪戦苦闘するよりiOSでスムースに作ったり演ったりするのを選ぶだろう。


 新しいiPad2はデフレ時代らしく、機能がアップして価格は据え置きだ。とても良いデバイスだし、実用的な機械でもある。
 近頃はWi-FiスポットやWi-Fiのある宿も増えているので旅行に最適だ。国際線にコンピュータを持ち込むときはセキュリティで起動して見せねばならない(僕が乗る航空会社はこう。そうじゃない会社もあるらしい)が、iPadならノーチェックだ。帰途のインターネットチェックインや、webページをEvernoteにクリップしてガイドブック代わり、とか使いまくれる。Androidテザリングすれば常時接続も可能だ(笑)。


 問題は、もし手に入れたとして、いつ使うか?なのだ。使う時間がないよ、ってこと。あるいは、iPadばかり読んでほかのことができないよ、ってことも。実はiPhone、ギャラクシータブの二つがあるおかげで、紙の本を読むことがめっきり少なくなったんだよね。いかんいかんと思っています。


 でも欲しいよね、iPad。良い道具はそこにあるだけで楽しかったりするし。

映画「十三人の刺客」を見たよ

■ライムスター宇多丸さんが「シネマハスラー2010ベスト1」に挙げた「十三人の刺客」が都内の名画座でかかってることを知り、電車に乗って見に行った。三軒茶屋シネマ、私鉄沿線にしてはとても賑やかな街だが、その場末めいた片隅に建つ、とても風情のある古い劇場だった。


■冒頭、裃の死装束の男がいきなり切腹を始める。左手で短刀を脇腹に当て、右手を柄頭に添えて抉りこむ。ここから画面は腹部を外れ上半身を映すが、短刀が左から右の端まで動いたとわかる。ここで息を抜きたくなるが、画面外の短刀は再び左から右へと動き始める。「二文字かよ!」と見てる側は驚く。武市半平太は腹を三段に切ったというが、二文字でも立派なものだ。先の一文字が痛くて、次の一線は恐ろしく困難なはずだ。
 この武士役は終始無言で、腹部を映すことなく上半身だけで切腹を演じ切った。短いなかにも緊張溢れる、観る者を一瞬で引き込むスタートだ。


■この映画はこんな風に観る者の神経を逆撫でしつつ、画面に注意を集中させつつ、進む。そのものズバリを見せず、想像させ、観客が感じる痛みを倍加させる。いい感じだ。


■画面が変わると、夜の室内。身なりの立派な老年の武士。傍の燭台から薄っすらと煤煙が上がっている。ここで僕は「あ、これ作った人たちは凄く本気だ!」と思い知った。
 テレビではパキッと画面の明るい時代劇ホームドラマしか目にしない。それらは、画がわかりやすいと同じくらい筋もわかりやすい。陰影がない。そうじゃないものをこれからお見せしますよ、という宣言のような、挑戦的な画作りだった。
 さらに次のシーン、夕暮れの大川端で川面に立てた脚立?止まり木?に腰掛けて釣りをする壮年の武士。大小がそばの柱に掛けられている。僕はこうした江戸風俗を知らなかったけどこの本物らしさには痺れた。すごい、本気の時代劇だ!
 後の展開は思った通り、手応え見応え溢れるものだった。考証と美術(プロダクションデザイン?)は見てて楽しいし、台詞も重厚。役者たちの所作も美しい。日本映画の剣戟の伝統を引き継いだらしいケレンも交えつつ、楽しく映画は進む。


■仇役は端整な顔立ちながら凄惨きわまりない暴虐をふるう殿様。日本書紀が描く武烈天皇みたいな人。狂王を葬るために暗殺者が指名され、暗殺者は同志を募り、旅立つ。昔話の「桃太郎」と同じ構図ですね。鬼役も、犬・猿・雉の面々も、たいへん魅力的。
 あと、狂王に仕える男が桃太郎役と旧知の仲で、二人は若い頃からのライバルという設定。敵方にこちらと同じ力量の者がいる、ということで互角の知恵比べ・技比べが緊張をさらに高める。素敵!


■刺客団の面々のなかでとりわけ魅力的なのが、山田孝之(桃太郎役の甥)、伊原剛志(浪人で桃太郎の食客)、窪田正孝(少年の侍で天涯孤独、伊原の弟子)の三人。
 山田は目と立ち姿が美しい。ちょっとずんぐりしたスタイルが古風で、侍装束がよく似合う。伊原はスタイルが現代人ぽいなと思ったけど、乗馬も殺陣も美しくこなす。居合いを抜くシーンがありますが、この居合いが居合道的にどうなのかわかりませんが、素人目には十二分に鋭く殺気を放っていました。僕がいちばん好きなのが窪田。「ゲゲゲの女房」のアシスタント(後の池上遼一)役で顔を覚えた人ですが、1週だけ見せ場があって、清新な演技が気に入った人です。今回も見せ場があります。というか、刺客団の最年少でひ弱だというスティグマを負った設定が美味しい! 僕たちは彼の目を通して血みどろの戦場を目撃するのです。その大役をきちんと果たしてくれてます。
 
(写真はここから拝借。窪田クン好きな人多そうだなー。わかるよ僕も好きだよ)


■今どきの日本映画に期待してはいけない、期待すると必ず裏切られる。そう思い込んでいました。だから見応えのある日本映画に出会ったら、盲亀の浮木優曇華の花か、ともかくその僥倖に感謝せねばなりません。「SRサイタマノラッパー」「愛のむきだし」「ヒーローショー」とか本当に良かったし大好きになったんですけど、それ以上に日本映画を観るたび裏切られることにもう疲れていました。期待して観てて、なんで、ここでこうなるかなー!とか。あるいはテレビ局主導の、大宣伝するし公開館も多いから最初からヒットは約束されてるよ系の。そういう日本映画に疲れ果てていたところです。
 しかしこの映画は違った。丁寧に丁寧に作り込み、往年の名脚本に尊敬を払い、スタッフが各々の仕事に誇りを以て取り組んできたことが画面の端々から伝わってきました。
 
(写真はここから拝借)

 雨の泥道を馬を何頭も並べて駆け抜ける。まさに襲歩。危険なシーンだしお金もかかります。この1カットのためにみんながどんだけ頑張ったか伝わってきます。それが物語の起伏にぴったり合ってて、クライマックスに向けて気持ちが高ぶっていきます。観客の心は三池崇史監督に完全に支配されています。これです、この感じ。気持ちよく翻弄してほしい、映画ファンはいつもそう思っているのに、なかなかそういう作品と出会えないのです。


■そういう気持ちと力の込められたシーンを積み重ね、物語は鬼ヶ島にたどり着きます。味方に数十倍する数の鬼たちを鉄桶陣に追い込み、桃太郎たちがバーンと並んで姿を見せるとき、もう堰を切ったように涙が出てました。
 映画的エクスタシーっていうんですかね。本当に、ありがたい映画体験でした。
 この後の長い殺陣は、僕的には蛇足というかご褒美というか、うれしいけど、もうお腹いっぱいでしたけど。


■主役の桃太郎に当たる役所広司が、かなり現代人っぽかったのがちょっと残念でしたけど、そんなことこの作品における彼の功績に比べたら大した瑕疵じゃありません。みんな良い仕事してました。窪田クンは舞台挨拶で「この作品を“踏み台”にして」と言ってしまって爆笑されたそうですけど、善哉善哉、こんな素敵な作品を踏み台にしてこれからの役者人生を登っていく彼ら、本当に幸せじゃないですか?
 この作品は映画ファンにとってまさしく盲亀の浮木優曇華の花。ここで会ったが百年目、いざ尋常に勝負なさることをオススメします。

寒い! 寒いのは飽きたぞ

 寒い日が続いている。会社辞めてからはめっきり外出しなくなったので外で風邪とかもらって帰る心配もないのだが、家にいたって寒い。というか、空調されていた会社の建物というのは住みやすかったのだな、と改めて思う。自宅にいると、夕方とか、窓からしんしんと冷気が降りてきて一気に室内が冷え込むのがわかりますよ。


 昨年の夏は酷暑だった。これも、ずっと家にいたために「家って暑い」と実感したのだった。暑気あたりもしたっけな。
 会社という大きな建物にいると、暑さ寒さを厳しく感じることがない。これは会社の建物から外に出ないから、ではない。外に出たって、長時間の外出をするにしたって、会社の建物を起点に動くわけで、たったそれだけのことがストレスをずいぶん軽減してくれる。寄らば大樹の陰。


 会社に属していないと外出して動き回るときもベースキャンプがない。A地点で用事を済ませB地点に移動するとき、ずいぶん時間があるといったんどこかでインタバルを置きたいのだが、街中でふと時間を潰すというのが最近はやりにくいのだ。公園にはベンチがない。路上生活者が居着かないようにわざわざ座りにくいものが据え付けられている。お茶を飲める店が少ない。「純喫茶なんとか」みたいな店は絶滅してしまった。マクドナルドは飽きたし、ドトールコーヒーはお店が少なくなったような気がする。スターバックスタリーズは嫌いだ。
 外で、街頭で生きるってのはけっこうタフだ。会社辞める前は「ノマド」とかって口走ってたけど、やってみると大変だよ。


 大変だよ、とかって愚痴ってる場合じゃないんだけどね。そろそろのんべんだらりとした今の暮らしも止めなきゃ。来月は確定申告だし。
 ともかく、寒いのは飽きたので暖かくなってくれること希望。地球温暖化にご協力ください>北半球さま
(こんな愚痴はTwitterにでもつぶやいとけば済むと思うのですがなんとなくこっちに書いときます)。さて、出かけよ。

小沢一郎のテレビ出演をネットで見た……のとAndroidのこと

 昨日(1/16)のフジテレビ「新報道2001」に小沢一郎が出演し、日曜の朝だというのに36%もの視聴率を叩き出した、という(ソースは例によってこちらさん)。しまった、僕も見ときゃよかった、せっかくHDD録画機を去年買ったのに、と思ったが適当録画予約のタグに「小沢一郎」をセットしてないのでムリでした。
 なので「新報道2001 小沢」でググって出てきた動画を見た。これは3本で1時間近くあるので、たぶん出演部分のフルサイズと思われる。
 もう一度見るかも知れないので、自分用にメモしておきます。


http://dai.ly/gYLUXd1-3 新報道2001 小沢一郎
http://dai.ly/i5U6Ps2-3 新報道2001 小沢一郎
http://dai.ly/gznKN83-3 新報道2001 小沢一郎


 派手なことは言ってない(地味な原則論しか言ってない)し、他者を非難批判する言葉も言ってない。それでも何か圧迫感を以て迫ってくるのは茂木健一郎も指摘している本人の強面イメージのせいなの? ただ、「人事は総理総裁の専権事項ですからお好きなようにやられればいいんじゃないですか」(うろ覚え)といったもの言いは慇懃無礼で、名指しされた総理本人はいや〜な気分になることは間違いないだろう。
 僕は政局のことはほとんど知らないし、小沢一郎が本当に人気があるのかどうかもよく知らない。前に「ネットでは人気があるようだ」と書いたら「そんなわきゃない」というコメントをたくさん頂いたので、ネットの輿論は僕にはわからない、ということにしている。
 んだけれど、現政権と比べると小沢の言説は真っ当だし、言うべきでないことは言葉を選んだり言わずにおいたりする賢明さも持っている。僕はこの政治家わりと好きだ。つい期待してしまう。

【追記】
 視聴率36%超、というのはデマだったそうで。別のソースによると最高9.2%、平均6.6%とのこと。普通の数字、なんですかね。 ウソの大きな数字を書いて流布すると贔屓の引き倒しになっちゃいますね。失礼しました。


 
 話は全然変わるのだけど、この動画を僕はGalaxyTabで見た。去年の暮れに買ったAndroid端末だ。はじめiPhoneで見ようとしたのだが、iPhoneでは途切れることなく動画を読み込むことができなかった。この www.dailymotion.com というサイトは知らなかったのだけどYouTubeそっくりの動画サイトで、リンクを踏むとiPhoneでもAndroidでも自動的にYouTube閲覧アプリが起動する。で、残念ながらiPhoneYouTubeアプリは途切れることなく読み込めないのだった。ちなみにWi-Fi環境下なのでソフトバンクモバイルの電波情況が悪い、とかの理由ではない。Androidも同じWi-Fiを使っている。
 せっかく端末を買ったのでぼーちぼちAndroidの概要を読んだり調べたりしている。rootを取得したりはしていない。畏れ多い。けどフォントはきれいなのに替えたいのでいつかroot取りたいとも思う。
 GalaxyTabの動作ははっきり言ってぎくしゃくしている。Android2.2だというが、他の2.2を搭載した端末、DesireHDだとかLiberoだとかSIRIUSαだとかと比べるとかなーり見劣りする。iPhoneと比べた日には……旧モデルである3GSとですら、美しさは雲泥の差だ。
 表示がなめらかで美しいと、使っててストレスが少ない。逆に言うとAndroidはとっつきが悪いので使いにくい、ということでもある。
 だけどAndroid端末はなんだかiPhoneより堅牢な、ネットの繋がりが途切れない印象がある。キャリアがソフトバンクモバイルじゃなくてDoCoMoだから、というだけではない。なーんか、OSレベルで、不器用だけど頑丈な印象があるのだ。
 それはもしかすると昔、Windowsを使う人とMacOSを使う人がお互いに抱いていた劣等感と似てるかもしれない。UNIXになる前のMacOSはしばしばクラッシュしたのでWindows使いからは「信頼できない」と嫌悪された。Mac使い(僕含む)はWindows機のことを「醜くて使いにくい」と嫌悪した。
 MacOSXからUNIXになり堅牢になった。iPhoneなどiOSUNIXだから堅牢なはずなんだが、Linuxベースでごみごみした印象のAndroidがシレッとやりおおせてしまうことがiOSにできなかったりして、面白い。なんだか、人間のやることは世代を超えて繰り返されるなあ、という印象。
 かといって大前研一が言うように、iOSAndroidに駆逐されて昔日のMacOSみたいになる、とは思わない。Androidにはけっこうダメなところがいっぱいあるし。基本的にはOSがバージョンアップされない、買ったときのままで行け、という姿勢とか、ほんとどーかと思う。Appleは偉いよ。iPhoneOS3からiOS4へのメジャーな更新も、ほとんどの端末を置き去りにしなかったものな。
 けど…未来はやっぱりAndroidのほうにあるのかな、とも思う。無骨で醜いけど勢いを感じさせるAndroid、なかなかこいつから目が離せない。そしてGalaxyTabは老眼が進む僕にとってはとても優しい機械なのだった。

あけまして「おせち事件」雑感

 あけましておめでとうございます。昭和86年が明けました。元号が変わって20年以上経つのにまだ平成に慣れません。個人的にはずっと昭和を使ってます。この方が自分の年齢とか数えやすいし。


■クーポン共同購入サービスの何が問題だった?
 さて、昨年大晦日にネットで火がついた「●ルーポンで買ったおせちが酷い!」件、これといったニュースのない年始に一部の方を大いに楽しませたようですね。僕も楽しんだ1人です。他人の不幸はメシウマー。下品ですね。ごめん。
画像はこちらから拝借しました。
 この事件からはいろんなことがわかりました。クーポン会社が取る手数料が定価の25%、つまりクーポンはたいてい半額で売ってるから手数料は実売上の50%にものぼる、という構造。その店を初めて利用する客にクーポンを売る、基本は一見(いちげん)さん専門で、普段から愛用してる客は想定外であること。問題のおせちを売った店では許容量を超えてクーポンを受注してしまったのか、あるいは最初から写真とは異なるものを売るつもりだったのか。豚肉、鳥肉、魚卵などが謳い文句と違って産地も品質も偽装されたものだったらしいこと。他の半額クーポン提供店では、2500円のコースを5000円と偽って「50%オフで2500円」と提示する、価格の偽装が行われてたくさいこと。「大勢の客に通常の半額で提供する」という少々無理のある集団クーポンサービスの暗黒面が次々露呈したと言えましょうか。
 でも、こんなことは本質的な問題じゃないような気がするんです。


■激安クーポンを使ってみたけど
 僕も何度かネットで買ったクーポン使ったことがあります。幸い、値段が偽装されてたとか、食材が偽装されてってことはありませんでした。量も十二分で、店から出るとき「もう食えん」と腹を抱えたほど。
 けどね…もうクーポンはいいや、と思うんです。
 たしかにクーポンを買って使うと、お金はセーブできます。でも僕には、それで失うものがいろいろあるような気がするんです。つまり、あんまりトクじゃないんじゃない?と。
 激安クーポンの残念なとこを思いつくまま挙げてみます。
1)選択肢が硬直してる
 ネットでクーポン買う時は、食べる直前とかじゃありません。お店に行って卓について食べるときとは腹具合が違います。卓についたとき「食べたい」と思うものを食べられるとは限らないんです。
2)たいてい、量が多すぎる
 激安クーポンで「当たり」とされるお店は、たいていちゃんとした量を出してくれます。ていうかかなりの量が出てきます。むしろ多すぎるというか。
 量というのは外食産業ではとても重要です。外食文化(?)においては「量≧味」という公式があるようで、味は凡庸なのに量が多いというだけで人気店になって行列ができたりします。ていうかラーメン店の行列は味より量が多いからってだけですね、最近は。「量」と「味」を取り違える人が多くなってるのかもしれません。
 でも僕はもう年なので、あんまりたくさん食べられないんです。いや、無理すれば食べられますけど、無理して食べても美味しくないし。
3)品目をチェックするのが煩わしい
 クーポンには提供されるコースの料理名や、名がなくても品数が明示してあります。クーポン使って食べるとき、出てきた料理を数えちゃいませんか? あと何品とか、これは出たとか、まだ出てないとか。もし買ったクーポン通りの数が出てこなかったらクレームしなきゃいけないし。
 これ、面倒です。僕はこういうの耐えられない。こんなこと気にしてたら料理味わうなんてできません。
4)クーポンで食べるときの雰囲気がイヤ
 クーポン使って食べてると、サーブしてくれる店員さんの視線がちょっと冷たいって感じがしませんか? いや、良い店の店員さんは客によって態度変えたりはしないし、客だって激安クーポン使うことに引け目を感じる必要はないんですが。でも、事実としてクーポンを使うと店員さんの態度がイマイチになる感じ、ありませんか?
 前にクーポン使った中華のお店は、店員さん一所懸命サーブしてくれたんですけど、「あと何品」ってこっちがチェックしてる空気が伝染したのか、「これで何品」「あと少し」「やっと終わった!」って態度が露骨に出ちゃってました。人間だもの、いくら抑えてもこういう心理は露呈するよね。しょうがない。
 でもこういう小さいことが、食事の味に影響するんだよね。食べることって、人間にとってちょっとした自由と尊厳をもたらしてくれるんです。それが、なんだか台無し。尊厳のない食事は美味しくありません。
5)激安クオリティが拡がってゆく
 これまで挙げた例はいずれもクーポンを買ったらこんな感じだった、というだけで、クーポンを買わなければ避けられることです。そんなにクーポン嫌いなら買わなきゃいいじゃん、というだけの話。だけどね、激安クーポンの副作用ってのはクーポン利用しない人にも拡がっていくんです。
 激安クーポン出してる店に普通に行って、クーポンじゃなくて普通に注文して、隣の客が同じものをクーポンで安く食ってたらどんな気分? クーポンって基本、その店のリピーターは使えないものみたいだけど、クーポン客でいっぱいの店内でクーポン使わずに食べるってどうなの? 負けた!とか思わない?
 クーポンで流行ってる店は盛りがいいけど、味はイマイチだったりしない? 「美味しくないけどたくさん出てくる店」ってことじゃない? そういう店を愛用したい?


■激安クーポンに感じた違和感って何だったんだ?
 美味しいものが安く食べられるのはいいことだ。ということで大流行したクーポンビジネスだけど(僕みたいに流行に疎い者でも経験してるんだから大流行って言っていいよね)、ここに来てどうやら美味しいわけじゃないぞ、という反証が出てきたのかな。
 僕は、ふだんは近所の八百屋と魚屋で買ったものを自分で料理して食べている(肉はスーパーで買うけど)。たまに外食がしたいときは、よく知ってる店に行くか、初めての店ならまずランチで偵察してから、となる。ほんとはこんな面倒くさい手続き踏むんじゃなくて、いきなり入った店が美味しかった、なんてのが好きなんだけど。最近は新しくできたお店が激しくハズレだったりすることが増えたから、注意深く選ばないと。人生で数少ない食事の機会を、美味しくない食事で使ってしまうのはもったいない。美味しく食べるためには健康と空腹と良い料理、良いお店…といろんな要因が必要だ。それらが揃うのは稀有なことだ。
 たまたま美味しくない店に当たったとき、スタコラ逃げ出す自由も重要だ。前菜や始めの数品で美味しくないのがわかっても、最後までコースを食べなきゃいけないなんて地獄じゃない?
 けっして安い値段じゃないかもしれないけど、快適なサーブで美味しいものを食べる喜びってあると思わない?  相応の代価を払うことではじめて得られる尊厳って大事じゃない?
「21000円が10500円だから」「鹿児島黒豚、フランス産カモ、国産和牛だから」「飲み放題だから」って数値やスペックでは美味しいかどうかって決まらないと思わない?
 自分が食べたいものが何か分かってれば、その代価を惜しむ必要はないと思わない?
 ちゃんとしたものを提供するお店は、ちゃんとした代価を受け取るべきだと思わない? この「ちゃんとした」ってとこが、お互いの尊厳に結びついてると思わない?
 …なんてことを考えたのでした。さて、クーポンの予約電話かけなきゃ。まだ使ってないのがけっこうあるんだよなあ。


■【追記】この言葉は聞きたくなかった

ほんと、小学校のいじめと変わらんな。いじめられてる奴を庇ってる奴までいじめられるという。。。

さらにそれに乗じてビジネスが上手く行っているグルーポン社の粗捜しをしたり、
さらにその類似業者の粗捜しまでするというのははっきりいってやり過ぎだし、調子に乗り過ぎだろ。。。

 堀江貴文氏とかがTwitterで上記の発言をしたことも話題になってましたね。僕はこれ仕方ないと思うよ。ていうかホリエモンが言うなよ、と。
 2ちゃんを筆頭とするネットの様々な人が当該企業について調べて書くのは、誰も止められないよ。というか堀江氏の大好きな市場の自浄作用でしょ、ネット言論も。それで当該企業が潰れても、市場による淘汰だし。ホリエモンにはこんなこと言ってほしくなかったなあ。市場って、小学校みたいなもんなのかもよ。


 クーポン共同購入サービスは新たな需要を発掘し、小売業に刺激を与えたかも知れません。しかし、激安クーポンの隆盛の陰で、安いけど美味しくないお店が増えた、サービスに見合った対価を受け取れない店があった、羊頭狗肉のクーポンで利益を出さねばならなかった、といった負の側面もあったんじゃないか。
 ここは一つ、市場がきちんと機能して、美味しいお店が適正な規模のお客さんを集められるようになっていくといいなー、と願うしだいです。

犬税は、懲罰ではない

■前に書いた「犬税」について、ちょっと書き足しておきたいことがあったので追加します。
 東洋経済新報社超ヤバい経済学』(レヴィット、ダブナー)からの引用を改変してメモしておきます。

税金を課すからって、その人は犬を飼うのをやめようとは思わないかもしれないし、そもそも思わなくていい。税金を課すのは、犬を飼う人に自分の行動で発生するコストを全部負担させるためだ(経済学者の業界用語で、これを外部性の内部化という)。


 僕が「犬税」という話で言いたかったのは、「犬の糞を放ったらかしにするけしからん飼い主から金を取れ」ということではなくて、「大勢が犬を飼うとどうしても、糞を片付けない、犬を捨てる、犬を殺処分するといった誰も望まないことも起きる、その社会的コストを受益者に負担してもらうのはどうか」という提案にすぎない。
 犬税のエントリをアップしてTwitterで流したら、「今『獣医ドリトル』で犬を殺処分する悲しいシーンなのに、なんて無神経なことを言うのだ」というレスポンスをいただいた。犬が悲しい目に遭ってるシーンを自分が見てるとき犬に課税する話を聞きたくない人がいる、というのは勉強になった。知らんがな、と思うが。
 ちなみに僕は犬を殺処分することについて、しかたのないことだと思っている。ちょっとニヒリスティックだけど。現代の日本では犬は経済動物だからだ。走れなくなった馬が殺されるように、愛されなくなった犬は殺されてしまうのだ。経済的な原理原則からいうと、こういうこと。
 犬税を取るということは、現在は完全に民生主導、市場での活動に委ねられている「犬」というトピック(産業)に官を介入させることを意味する。愛されない犬(売れ残る犬)を処理するのではなく官の介入で別の飼い主にマッチングさせることができないか。その予算として犬税を導入するのはどうか、という話だ。思考実験だ。


 税金は懲罰的に課せられるものではない。僕が犬の糞を見て憤慨して思いついたわけではなくて、「放置された犬の糞は一種の社会的な問題なので、これを制度的に解決する方法はないものか」と思っただけだ。そして放置された糞や捨てられる犬をなくす方向でインセンティブを形成できないかと思ったまでだ。


■全然関係ないけどサムスン電子GALAXY Tabを買った。先週からキャンペーンで安くなったからだ。iPhoneと比べるとユーザインタフェースはカクカクしていて使い勝手や格好は悪いけど、いろんな人が寄ってたかって作っているAndroidの世界に触れられるのは面白い。なによりなにより、プラダフォンという最悪のガラパゴス携帯を手放すことができたのが嬉しい。あれは……ほんとになんだったんでしょうね? 違う意味で歴史に残る端末だと思います。

古い仲間と飲んだ——僕らのバブル歌謡大全

■僕が会社に入ったときの編集長が亡くなった。ずいぶん前に定年退職された大先輩で、70代半ばだそうだ。
 地下鉄を降り、寒風の吹く夕闇を衝いて坂を登る。ずっと以前住んでいた池袋西口近くにあるお寺へお通夜にうかがった。境内は暗い。たしかこのお寺は「首斬り朝右衛門(くびきりあさえむ)」として有名な山田朝右衛門の墓所じゃあなかったかな?
 慌ただしく焼香を済ませ、精進落としの別室に行くと、なんだか懐かしい面々がいた。
 僕がずっと仕えた元編集長、いっしょに辞めた同僚、部は違ったけど妙にウマのあった諸先輩がた。年の近い面々でずっと前に会社を辞めて一本独鈷(いっぽんどっこ)でやってる人たち。野良犬の先輩だな。もちろん今も会社で働いてる面々も。
 故人の昔話などしてるとつい思い出す。みんな20代から30代だった頃。90年代。多くは語るまい。今の若い人に読まれると恥ずかしい思い出しかない。今の若い人たちが効率を追求して無駄を極限まで省き、周囲の空気を緻密に読み、クレバーに生きているのと比べると、僕らの若い頃は無駄が多かった。その最たるものがバブル消費だったかも。楽しかった。すまん。


■お寺の向かいの居酒屋に場所を移し、かなり長いこと飲んだ。居酒屋は今風のPOS注文だったけど、近所の住宅街に住む人々が子ども連れで訪れるような、ファミレス代わりに使われるような気さくな店だった。
 故人には申し訳ないけど、このお通夜は同窓会みたいでなんだか楽しかった。というか、その前に僕らが参列してきた同僚のお葬式は悲しいものだったから、わりと天寿を全うされた感じの大先輩の式はちょっと気が楽だったのだ。
 悲しかったのは10年前の先輩のお葬式だ。定年退職して1年とちょっと、まだまだやりたいことが一杯あったのに、その先輩は亡くなられた。僕は何本か彼の企画を預かっていた。倒れられたとき、「原稿のことは全部彼に」と奥さんに言ったと、伝え聞いた。本当に悲しかった。僕はその年の夏、うつ病を発症した。関係あるのかないのかわからないけど。
 この編集部のOBはけっこう短命なのだ。マイペースで元気そうだった方や、「傷だらけの人生」が持ち歌だったユニークな方が、いずれも定年からしばらくして亡くなった。ほんとうに、ほんとうに残念なことだ。「僕はもうこれ以上先輩のお葬式に来たくないです。だから死なないでくださいね」なんて失礼なことをお通夜に来てた諸先輩に向かって言ってしまった。すみません。
 夜が更けて解散して、机を並べて働いていた面々でカラオケに行った。このメンバーでほんとによくカラオケに行った。90年代初頭のことでした。
 レパートリーは古い。僕は沢田研二勝手にしやがれ」を歌うのが好きだ。当時僕がこれを歌うといつも途中で演奏を切られた。やかましいからだ。アン・ルイス「六本木心中」は編集部のお姉さまの持ち歌。「北の国から」が好きな同僚がよく歌ってた尾崎豊「アイ・ラブ・ユー」をリクエストしたら照れて歌わなかった。ちぇっ。そのくせ先輩編集者(今も会社にいらっしゃいます)と一緒に少年隊「君だけに」をデュエットし始めた。ほんとは今日来てないもうメンバーがもう一人いるんだそーだが。光GENJIガラスの十代」は僕らよりずっと前に会社を辞めて今はフリーで活躍している元同僚の十八番。んー、こうして曲名書いてるとなんだかバブル歌謡大全って感じだな。


■フリーで活躍してる元同僚とは、ここで名前を書いたらけっこうみんな知ってる人だ。週刊誌に連載を持ち、著書は5冊になったそうだ。ロシアや中国と忙しく行き来してる様がTwitterでわかる。会社では僕の1年先輩だった。10年前に亡くなった大先輩は僕らの師匠で、彼が兄弟子、僕は最後の弟子だった。ちなみに亡くなった大先輩の十八番は「長崎の夜はむらさき」だった。
 社員としていっしょに働いてる頃、僕はこの先輩となんだかそりが合わなかった気がする。僕は失礼な後輩だったので、彼に向かって「違うんじゃない?」などと失礼な口の利き方をしていた。ほんとにすいませんでした。
 退社してしばらく彼の消息はあまり聞かなかったが、近年めきめきと目にするようになった。週刊誌の誌面、書店の新書コーナーなどで名前を見るようになり、Twitterが流行り始めたときは精力的な日本語と英語のツイートを目にした。中国の大都市から現地のサブカルチャーについてツイートする様は迫力があった。
 今回、その彼と超久しぶりにビールを飲み、以前はできなかったくらいはっちゃけた(主に彼が)付き合いができた。華々しい活躍の陰で彼が続けてる努力、業界の事情、やっぱり先行きは不安なんだよ、だけどやるんだよ、というフランクな本音を聞けた。
 なんだか、会社を辞めてからずーっとブラブラして、身体は楽なんだけどなんだか楽しめない、そんな気持ちがしていたのだが、それがスーッと消えた気がした。僕は自分でも気づかないけど、何かに萎縮してたみたいだ。それが解けたようだ。ありがとう。
 そろそろ失業給付をもらうだけの毎日におさらばして、働いてみようかな、なんて思ったりする。何をすべきかまだよくわからないし、仕事があるかどうかもわからないけど。こういう気持ちになったのはあなたのおかげです。ありがとう、XXXXさん。