徳大寺有恒の本はやっぱり凄い。面白い。

 図書館をぶらついてて『日本のクルマ社会を斬る!―『間違いだらけのクルマ選び』20年ベスト評論集』(草思社1996)を見つけたので借り出して読んでみた。自動車評論家・徳大寺有恒さんのデビュー作から20年分の『間違いだらけのクルマ選び』の批評原稿の合本だ。
 この14年も前に出た、元々の原稿は33年前という古い本が、無類に面白い。なんでこんなに面白いんだ!と思いながら読んでる。昨日「リストラなう」日記のほうにクルマについてちょっと書いたのは、もろにこの本の影響だ。かぶれやすいんです。
 僕はもともとそんなにクルマが好きではなかった。月給取りになってからは休日は昼酒が飲める数少ない日というわけで昼からビール呑んでたので運転する機会などまったくなく、免許証はビデオ屋の会員になるための身分証にすぎなかった。だから更新を忘れて失効したこともあった。
 だけど30代半ばでうつ病をやり、酒を止めた(以降7年くらい飲まずにいた)。とすると運転もできるなと気づき、以来クルマに興味を持ち始めた。だから2001年以降のクルマについては雑誌や書籍でそれなりに勉強した。一番好きな自動車評論家は福野礼一郎、クルマに関する創作で好きな作家は楠みちはる絲山秋子だ。楠さんは『湾岸ミッドナイト』の人だと多くの方がご存じと思うが、僕にとっては『シャコタン★ブギ』の人だ。高知と思しき地方が舞台の若者クルマ文化誌。絲山さんは「NAVI」連載の短編集『スモールトーク』が小説のくせに絶妙のクルマ批評にもなってて、初見のとき脳が唸りを上げて驚いた。面白い小説です。それと『逃亡くそたわけ』はクルマが副主人公のロード小説、そんじょそこらの人には書けない大傑作だと思います。
 という案配の、遅れてきて背伸びする耳年増のクルマファンなのだった。だからむしろ本流の徳大寺さんの本はあまり読んだことがない。
 ところが今回『間違いだらけ』の古い評論を読んでみると、とくにデビュー作の1977年の原稿は、これ読んだ覚えがある。そう、小学生のときに父親が買ってたのを読んでたのだ。
 当時僕は広島県にいた。学校裏の駐車場に教師の通勤車両が停まっていたのを思い出す。セリカリフトバック、スカイライン(箱スカ)、N360、セルボ、そしてサニー、カローラ。地域性もあってファミリア、ルーチェ、サバンナ。『間違いだらけ』を読んではそれらをしげしげと眺め、反芻していた。当時から耳年増なのだった。
 あれから30年以上が経ち、クルマそのものも自動車評論もずいぶん変わった、変わったはず、と思っていた。ところが1977年に書かれた原稿が今も十分面白く読めるのは驚きだった。それはつまり、徳大寺さんの書いたものが経年劣化していない、ズバリと本質的なことを書いていたからだと思う。


■『間違いだらけ』で今更発見した史実
 1977年版で非常に面白かったのは、「グレードアップ商法に騙されると身の破滅」という原稿だ。当今は流行らないが、当時クルマを買うということは、次にちょっと大きなクルマに乗り換えるという消費サイクルに参加することを意味していたのだ。
 当時の一般的なカーライフは、独身でパブリカ(チェリー)、会社で中堅のヒラくらいになるとカローラ(サニー)に家族を乗せて走り出す。ちょっと役が付くとコロナ(ブルーバード)、部長になるとマークII(ローレル)、局長とか役員になるとクラウン(セドリック)、という双六みたいな購入モデルがメーカーによって用意されていたのだという。「いつかはクラウン」という、今聞くと意味のわからないコピーにはこういう背景があったのだと。
 年齢とともにエンジン・車体ともに拡大していかなければならない、という考えの根拠は、間違いなく経済成長だろう。「3年後の日本経済は今より大きくなっており、俺もおそらく部長になっており、子どもも大きくなってるのでクルマも大きくプレミア感のあるものにして立派にふるまわなければ」という思想が蔓延していたのだ。これ、今考えるとものすごく根拠レスだし、ある種の信仰に近い気がする。数年後には出世していたい、という願望はわかるけどね。
 これはクルマに限らず家でも仕事でも成長していくはず拡大していくはずという無意識の基調が当時の世の中にあったのだ。当今の前提は収縮していく日本でどうすれば生き残れるか、明日は今日より暗いかも、という基調なのだから正反対になってしまったわけだ。
 徳大寺さんが偉いのは、そういう成長前提の風潮が吹き荒れる当時から「小さいクルマが大事なのだ、小さく制限されたなかでどれだけの性能と機能を実現できるかが重要だ」と訴え続けてきたことだ。彼がクルマを批評するときの基準は74年にデビューしたVWゴルフだと聞いたことがある。さにあらん。小さく限られたなかで実現された機能と性能、その集積が美しいカタチをとり、しかもよく走る。よく走るのは小さいなかで考え抜かれた性能の集積がよくできているからだ、という理詰めのプロダクツ。
 徳大寺さんの批評が産業界や市場にどれだけの影響力を持っていたのか、しょうじき僕にはよくわからないが、昨今のコンパクトカー隆盛を見ると徳大寺さんの理想が実現されつつある気がする。カローラに替わってフィットが販売台数1位になり、軽自動車が大きく支持される今日の日本市場。これはけっして自然の流れとかじゃなくて、誰かが「こうした方がいい!こうあるべき!」と言い続けた力なくしては実現しなかったんじゃないかと。
 メーカーもグレードアップという上昇志向をあおる商法をやめ、ハイブリッド車のように長く乗らないと元が取れないクルマ、つまり長く乗ってもらうことが前提のクルマを作り始めた。もっとも、グレードアップ商法が成立しないくらい厳しい不況が長く続いているということかもしれないが。


■徳大寺さんはなぜブレなかったのか?
 彼は「徳大寺有恒」としてデビューして以来、30年以上を一線の自動車評論家として生きてきた。その間いろんなことがあったと思う。まず自動車評論家はライターの一種であり出版という産業、エコシステムの中で暮らしている。出版業の中にも政治があり、流行=はやり廃りがあり、じじつ現在モータージャーナリズムという出版の一ジャンルも往年の隆盛から衰亡の途上にある。
 また自動車という商品を語ることから、自動車メーカー、サードパーティといった利害関係者との政治がある。書評家と違って評論したい商品をひょこっと買ってみるわけにはいかないから、メーカー広報から借りたり伝手を辿って探したりするうちに複雑な人間関係、政治状況に絡め取られることもあっただろう。まして商品を作っているメーカーから借りて、好き放題運転して返却し、感じた通り思った通りのことを書くというのは難しい。「借りた」時点で依存関係が生まれ、次も商品を「借り」なければ評論ができないという一方的な力関係のなかで表現の独立性を保ってきたのは本当に大変なことだ。難事業だ。
 いまネットには無料で読める自動車評論、新車レビューが山のようにある。だがよく読むと、同じ時期に発表された新車のインプレッション記事は、書き手が違うのに同じ表現があったり、表現は違ってても同じ箇所を同じ論調で論じたりしているのに気がつくだろう。例えばBピラーを取っ払って大きく開くスライドドアを搭載した車種があるとすると、その印象記は、どれもこれも「広々と開いて気持ちがいい!」となる。ピラーを取り除くと剛性感が変わるだろうし走った感じも違ってくるだろう、スライドドアは重量増になるかもしれない。それは燃費の悪化から耐久性にまで影響するかもしれない。だがそういうネガティブなことは新車発表時のレビューで触れられることはあんまりない。みなが褒めているなら1人くらい意地悪な批評家がいてもいいんじゃないかと思うが、どうも新車レビューはどこのサイトで読んでも横並びだ。それが速報であればあるほど、似ているのも不思議だ。
 これはたぶん自動車会社が配布するリリースを元に原稿を書いている、あるいはそのように論調を誘導される試乗会に参加して書かれたものだと思う。映画のレビューはもっと顕著に同じことが起きてますよね。
 30年の間徳大寺さんはそういうたわけた仕事をまったくしなかった、かどうか僕は知らない。僕は彼の良い読者ではなかった。
 彼の“メートル原器”だったフォルクスワーゲンゴルフは30年のうちにずいぶん変わった。現行は6代目? 大きくデラックスになり、性能も高いが重量もかさむ、初代の面影がなかなか見当たらない別人だ。いま改めて初代を見ると現行VWポロより小さいことに驚く。この肥大化は、30年の間に自動車産業が辿った拡大の結果であり、安全基準などの要求を呑んだためであり、市場=消費者の欲望を取り入れてきた結果だ。自動車というモノの世界はこんなふうになってしまった、という象徴だ。
 けど、彼の20年分の評論を年代関係なくランダムにツマミ読みしてみると、言ってることが見事に変わってないことがわかる。この一徹さはどこから来たのか、何に由来するのか。
 それはもしかすると、彼の評論の対象であるクルマが「走り、曲がり、停まる」、「人を乗せ荷物を載せ、暑さ寒さを耐えしのぶ」という物理的な存在だからじゃないか、と思ったりする。
 30年の間に自動車をめぐる環境や社会、思想は大きく変わった。だけど物理法則は変わってない。公称燃費の算出法が10・15モードになったとかそういう矮小な変化はあったけど、物理の法則は1ミリも1グラムも揺らいでいない。
 僕の好きな福野礼一郎さんはこれを「物理の神様」と呼んでもっとも大事にしている。エンジン出力の改善や電子デバイスの進化などより、走る・曲がる・停まるに適した物理構造でクルマの素性が決まる、つまり大きさ、重さ、レイアウトでだいたい決まってしまうのだ、そして走るのに適したクルマは「小さく・軽く」あるべき、という。
 徳大寺さんもそこに異論はないはずだ。というよりむしろ、福野さんがクルマというハードそれ自体に批評が向いてるのに比べ、徳大寺さんは『間違いだらけ』で開始したスタンス=庶民のあなたが買って乗るのに適したクルマは何か、にずっと寄り添って語っている、そのうえで「軽く小さいクルマでたくさん積めるのが良い」と主張し続けているのだ。福野さんはストイック、徳大寺さんは世俗的。に見える、僕には。だけど2人とも「物理の神様」にはとても忠実。
 物理法則は今も昔も変わらない。衝突安全基準が変わって車体が大きくなければならないと決められた後も物理法則は変わらないわけだから、大きく重くなったビハインドを頑張って取り戻さねばならない。それは決して、重たい大出力エンジンの採用ではない、さらに軽く小さく作るにはどうすればよいかだ、というのが2人に共通の思想なのだと思う。
 74年のゴルフという傑作クルマはもう今はない。だけど徳大寺さんはそのゴルフが体現していたものを会得し、30年間その何かを大事に守ってきたのだと思う。それが「変わってない」感につながってるのだと。
 別のエントリ内田樹さんの本を挙げ、「その情報を得ることによって世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」という判断基準を引用した。その伝でいくと、この『日本のクルマ社会を斬る』は、日本のクルマ社会の成り立ちを理解する恰好の助けになるのだ。ほんとに。すごい良書です。
 こういう本はほんとはクルマに興味のない人が読んでこそ役に立つ――最も短い時間でしっかりとしたことが分かるわけで――それこそが徳大寺さんと草思社の方々が企画したことであり、その結実が今の良いクルマに反映していると思う。
 社会を変えた書物というのは少ない。だが、このシリーズは読者を良いドライバー、良い消費者に導こうとし、面白く読ませようとした、たいへん志の高い本だったと思う。文章も良い。著者もいいけど優秀なスタッフライターの方々の仕事だと思う。本当に良いものを読ませてくださって、ありがとうございました。御礼言うのが遅すぎたね。ごめん。


※webにもすぐれた自動車評論家はいて、僕はこの人が大好きです→B_Otakuのクルマ試乗記
 この人も広義の徳大寺チルドレンだと僕は勝手に思っています。