ゆうべ祖母が死んだ。ばあちゃんの思い出を書いとく

■今朝、父から電話があった。「メール見たか」と。ごめん、昨日は珍しく飲み会があって、久しぶりに会う面々だったからつい深酒してしまい、泥酔して帰ったからまだ頭がアルコール漬けなんだ、と告白するわけにもいかず「ごめんまだ見てない」と言うと、「ばあちゃんが亡くなったんだよ」とのことだった。
 母方のばあちゃんは百歳だか百一歳で、しかも寝たきりとかじゃなくてふつうに暮らしている元気な人だ。僕の実家から1キロかちょっと離れた従兄の家にいる。こないだ会ったのはいつだろう? 先だっての正月には会いに行かなかったものな……。
 昨夜遅く、風呂場で倒れているのを発見され、救急搬送されたが亡くなったとのことだった。心臓だったらしい。苦しんだのだろうか? そうでないといいが。


■お葬式は明日だ。実は都合が悪くてお葬式に行けない。生涯に一回しかないイベントなのに欠席してごめん、ばあちゃん。来週帰るから、それまで冥土に行かずに待っててね。って四十九日の間は冥土に行かないんだっけか。あ、ばあちゃんちは神道だから四十九日とか関係ないか。


■お葬式を欠席するお詫びに、ブログにばあちゃんの思い出を書いておきます。お詫びにならんか。でもせっかくだから。というか自分のためだな。
 父方のばあちゃんが死んだのは20年前で、その頃はブログはおろかインターネットの存在すら知らなかった。ゆえに父方のばあちゃんに関しては何も書き残してない。すまん、父方のばあちゃん。


■百歳か百一歳ということは、ばあちゃんが生まれたのは1910年とか1909年だ。仮に1909年としてみると、明治42年、同世代は大岡昇平とか淀川長治太宰治田中絹代松本清張。フェルディナント・ポルシェ博士とかピーター・ドラッカー、「俺たちに明日はない」のクライドもこの年に生まれているという(wikipediaは便利だな)。いずれも20世紀を作り上げたと言っても過言ではない偉人たちで、それはつまり彼らが成人して仕事を始める1930年代が文明や文化の大きな曲がり角だったとも言える。
 ポルシェが駆逐戦車や重戦車を設計していたのはまだ30代前半だったのだな、というのも意外だ。ヒトラーのお気に入りはただのマッドサイエンティストじゃなくて、少壮気鋭のマッドサイエンティストだったわけだ。連続強盗犯クライド・バロウも、ウォーレン・ビーティが演じるとそれなりの年の伊達男に見えるが、実際は暴走族を卒業したくらいの若造のチンピラだったのだとわかる。もっとも、大不況の中で育ち、苛酷な少年時代を送っただろうから、年よりも老けていたかもしれない。


■僕のばあちゃんもこうした激動の時代に生まれ育った。どこで生まれたのかはよく知らない。僕が覚えている家は、広島県備後地方のちょうど真ん中あたりにある甲奴(こうぬ)郡上下町の近郊にあった。ここはばあちゃんが嫁いできた家で、牛を飼って田んぼをやっていたじいちゃんとの間に僕の母が生まれた。母には兄がいたそうだが僕は会ったことはない。従兄・従姉を残して家を出たらしい。だから、じいちゃんばあちゃんは僕の母や叔父と、まだ小さかった孫たちをいっしょに育てていた。


■地図で見ると上下町は広島県東部のちょうど真ん中だが、福山市あたりから見るともう県北、雪が降る土地という感覚だ。僕の生家もばあちゃんの家から山を一つ二つ越えたところにあったが、冬は雪だるまを作り、春先は雪が溶けてひどくぬかるんでいた記憶がある。距離にしてみると県南の工業地帯からそんなに離れていないのだが、高原地帯なので気温が急に下がるのだろう。地図の上では山陽地方だが、冬のどんよりとした曇り空は山陰という字面のほうが似つかわしい。
 幼稚園児の頃、1970年頃だが父が運転するスバル360に乗ってばあちゃんちをたびたび訪ねた。道順は覚えていないが、砂利道をゆっくり下っていくと鎮守の社がある森を過ぎ、数軒の農家が点在する斜面のいちばん手前がばあちゃんの家だった。作物を干したりする前庭があり、便所は母屋ではなく前庭の先にあった。肥にするから畑のそばに便所を設けるわけだ。母屋に向かって右が牛小屋になっていて、赤黒い大きな牛が1頭いた。
 牛小屋には草食獣の匂いが溢れている。彼が食べる草と寝藁、温かな牛糞の良い匂いだ。牛や馬の糞を汚いと思う感覚が僕にはない。幼児体験、何もかもが目新しく、楽しく、大人たちから全人格を承認され愛されていた頃の記憶に牛糞の匂いが必ずしみついているからだ。だから僕は動物園でゾウやサイを見たり、離島で牛舎のそばを通ったりすると、不意に幼時の記憶がフラッシュバックする。嗅覚って面白い器官だ。


■この牛だが、実際には温和しい良い牛だったのだろうが、小さい子には危険なので触らせてはもらえなかった。とにかく大きかった、という記憶しかない。怖かったから近くに寄ったりもしなかったろうね。
 祖父はこの牛を使って、道の向こうにある田圃を耕していたのだ。小さい子には広大な田圃に見えたが、今考えると棚田に毛の生えたような狭い土地で、何枚か向こうはすぐ山際になっている。機械が入らない田圃だから牛が適していたのだろう。機械を買うつもりもなかったろうが。
 長じて、牛を飼って農作業をすることがイマイチわからなかったが、宮本常一の『忘れられた日本人 (岩波文庫)』を読んだとき、やっと納得した。同書所収の「土佐源氏」、ご存じの方も多かろうと思うが高知県檮原地方の老いた博労(ばくろう)が民俗学者宮本常一に語った一代記である。博労が百姓にどんなふうに牛を売りつけるか、どんなふうに引き取るかが描かれている。なるほど、当時の牛というのは現代の自家用車なんだな。博労は中古牛のディーラーだ。


■祖父は原爆症だった。広島に原爆が落とされたとき近親者を捜しに市内へ赴き被爆したそうだ。当時は被爆者手帳を交付してもらうのに厳密な証人が必要で、同行した人の証人になった祖父は自分のための証人がいなくて被爆者認定を受けられなかった。原爆症はブラブラ病とも呼ばれ、傍目にはわからないが本人は体調がすぐれず辛いことが多いという。勤勉を尊ぶ田舎のことではあるし、また働かずにぶらぶらできる(今の僕のように!)ほど裕福でもなく、辛い体に鞭打って牛とともに働いたのだろう。山間部の朝は暗い。暗いうちから起き、山の端に日が落ちるまで田畑をやって日が過ぎたことだろう。そうして祖父は僕が5歳の春に亡くなった。神道式のお葬式なのでお赤飯が出たと記憶している。本当か? 黙って座っているのが苦痛だった記憶もあるな。
 祖父の死後、おばあちゃんは家を畳んで、県南へ引っ越した。僕の父も同時期に県南へ引っ越した。僕は入学したばかりの全校生徒18名の小学校を離れ、経済成長で人口が激増している県南の小学校へ転校した。全校生徒は1000名を越えていた。僕はまだ千という数字の意味がわからなかった。


■後に、じいちゃんばあちゃん家の跡地を訪れたことがある。牛小屋と前庭を備え、広間には囲炉裏(掘り炬燵)まであった広い家、だったはずなのに、たったこんだけの敷地なのか、と緑の草が伸びた空き地を見て思った。畑の石垣には野生化したイチゴがまだ残っていた。僕は素朴な山間部の集落から工業都市の都会的な(笑)ベッドタウンに投げ込まれ、こましゃくれた同年代の子どもたちにビビり、バカにされ、登校拒否になった。夜、布団の中で「あの牛はどうなっただろう?」と思い始めると不安で眠れなくなった。涙が止めどなく出たりした。
 今考えると、牛はディーラーが引き取って他のユーザーに転売したことだろう。肉にされたんじゃなかろうか、僕はそれを食べてしまったのではなかろうか、と不安におののいていたわけだが、杞憂だった。


■やがて新しい学校に慣れ、それでもビビりー癖が残ったせいで僕は病気がちな小学生になった。体は小さく学級でも最前列、ちゃんと大きくなるのかと親を心配させたことだろう。この頃年の離れた従兄が今の土地に家を建て、ばあちゃんと同居して一家を構えた。僕は田圃の間の道を歩いてこの家にしばしば寄り、学校や近所の友達の目を離れてくつろいだ(どうも僕は近所の友達が苦手だったようだ。引きこもり気味だったのかもしれない)。適当に甘えさせてくれる母方のばあちゃん(同居していないからだな)という存在も心地よく、年の離れた従兄が読み捨てた劇画を読んでドキドキしたりしていた。看護学校から帰ってきた従姉に連載が始まった頃の「ブラックジャック」を見せると「こんなX線写真はない。奥が写ってないじゃない」と言われた(畸形嚢腫、つまりピノコ初登場の回だ)。従姉には貸本屋にも連れてってもらった。関西の版元のマンガがほんのわずか置かれた、店じまい寸前の貸本屋だった。
 従姉の机にあったボンナイフを悪戯してて指を切り、大声で泣いた。いきなり血がたくさん出たので驚いたのだ。ばあちゃんは急いで二階に上がってきたが、傷を見ると慌てることなく落ち着いて手当てしてくれた。僕のパニックは収まった。
 ばあちゃんに連れられて近所のスーパーへ行った。山奥の町にスーパーはなかったのでいつもワクワクした。今考えると沖縄の田舎にある共同購買店と同じくらいの規模の店だったが。道すがら、はしゃいで不意に突飛な動きをする小児にばあちゃんは苦労したようだ。表通りはクルマも走る。クルマとすれ違うたび、ばあちゃんは体を曲げて僕をかばおうとしていた。僕はそれに気づかず右や左に視線を取られ、ばあちゃんをハラハラさせた。


■中学以降は以前ほど頻繁にばあちゃんちを訪れることもなくなった。クラブ活動や、自分で選んだ友達と遊ぶのが忙しいからだ。盆や正月に親戚が集まる席に顔を出すと、いつもばあちゃんは静かに端っこにいた。病むこともなく、いつ会ってもにこにこしていた記憶がある。年相応に体には不調なとこもあっただろうに、端にはそういうことを気づかせなかった。僕がガサツで気づかなかっただけかもしれないが。だが明治生まれの、苦労して生きてきた女性はタフなのかもしれない。父方のばあちゃんは八十いくつで亡くなったが、亡くなるまで病気らしい病気もせず、風邪をこじらせて短く寝ついた後に息を引き取った。前々から、ぽっくり逝きたい、と言ってたようだが、本当にそんなようだった。今回のばあちゃんの死も、百歳という年を考えると劇的なまでに静かな終幕だったと思う。
 ばあちゃんは死ぬまで家を離れなかった。家には従兄の子ども、つまりばあちゃんの曾孫が大きくなり、結婚して今は玄孫がいるんじゃないか。曾孫はばあちゃん孝行な子で、結婚する際「ばあちゃんは俺が引き取って一緒に暮らす」とまで言ったそうだ。偉いぞ曾孫、とも思うが、ばあちゃんも愛される可愛いばあちゃんだったのだ。


■僕はいい年をして独身で、しかも仕事も辞めてしまった。仕事を辞めたことは伝えてない。体の弱い、みそっかすの孫で心配をかけた。ごめんよ。とりあえず今は普通に育って健康だ。ありがたい。ばあちゃんたちの頑強な躯を受け継いだおかげだ。ありがとう。
 冬の日だまりのような笑顔と、こたつ布団の定位置を示すパイロンのような(失礼な!)ちっちゃな後ろ姿を思い出す。ずっと前に80キロを超えるほど肥えて里帰りしたときは「どなたさんじゃったかの?」と言われてしまったが、あれから15キロばかり痩せたのでもう間違えないかとも思いますが。ばあちゃん、ありがとう。ご冥福をお祈りします。