高橋源一郎さんと対談しました

 先週の火曜、なんと高橋源一郎さんと対談をさせてもらう機会があった。
 場所は矢来町の新潮社2階にある重厚な雰囲気の会議室。訊けば、役員会をやったり文豪を接待する一番上等の会議室だとか。なにしろ三島由紀夫の亡霊が徘徊する出版社だからな、日本の文芸産業の歴史の半分を(紀尾井町と折半、という感じか)背負っているわけで。
 僕は柄にもなくとても緊張していた。今朝まで高橋さんの最新作『「悪」と戦う』(河出書房新社)と「群像」(講談社)連載「日本文学盛衰史 戦後文学篇」のコピーを読んで準備していた。が、文章は易しいのに非常に難解な『「悪」と戦う』や、カットアップやコラージュとか苦手な手法で縦横無尽に文学論が展開する「日本文学盛衰史」はなかなか頭に入らない。あんなに読みやすいのに、わからない…ということは俺が緊張しててダメダメなんだな? とても不安なまま当日を迎え、丸腰の気分で電車に乗って新宿区に行き、会議室の雰囲気に完全に負けながら対談相手を待っていた。


 この対談は新潮社の広報誌(?)「波」に、単行本『リストラなう!』のプロモーションの一環として掲載される予定だ。「普段は会えない人と会えるチャンスですから、ここはひとつ、会いたい人を希望してみては」との編集の囁きに乗ってしまい、ついふらふらと高橋源一郎さん、とつぶやいてしまった。もちろん「群像」6月号に拙ブログを引用してもらった縁で。
 ブログとか電子メディアだと、相手は実際より矮小化されて見える。そして自分の自我は肥大している。だからついつい大きな口を叩いたり、あり得ない驕慢な行動をとったりする。ブログを引用された際の僕の反応もその類だ。そして実物とのコミュニケーション、体温やその場の空気を共有する機会が来ると、相手のリアルな大きさがだんだんわかってきてビビるのだ。とくに今回は書かれたものを読んでちょっと予習をしたのが悪かった。とくに「日本文学盛衰史」は面白いからね。読んだ結果“呑まれて”しまいましたよ僕は。


 約束の時刻、会議室のドアが開いて彼は現れた。よく洗い込んで身体になじんだジーンズとカジュアルなシャツ、適当に伸びているけど清潔そうな髭。相当厳しい女性でもこれなら嫌悪感は持たないだろうな。僕が同じカッコしたら女性には怒られるだろうに…さすが、モテると噂の人だ。
 最初に何から話し始めたか……もう忘れてしまった。けど、とても話しやすい雰囲気を作ってくださるのでありがたかった。大学で教えておられるだけあって、言葉を受け止めたり放ったりするやりとり行為がとても快適。きっと今「師モード」とかなんだろな。もう「高橋さん」じゃなくて「源一郎先生」と呼びたいくらいだ。明治学院大学で源一郎先生の講義やゼミをとれる学生さんが羨ましい。


 僕は現役の営業マンだった頃、「文学」に尊敬や畏怖の念をまったく感じなかった。これは僕のとてもダメだったところの一つと言える。「文学」なんてものは、かつては隆盛を誇ったかもしれないが今はもう絶滅寸前の商品ジャンルで、伝統芸能の一種なんだから滅ぼしたくないなら国が助成金でも出すべきだと、本気半分で思っていた。こういう手間暇かかるジャンルを民間の出版業界だけにまかせとくなよ、というか。
 ところが会社を辞めてしばらく経ち、対談に備えてにわか勉強で「日本文学盛衰史」を読んだりすると、だんだん「文学ってもしかしてすごいのかも」と思うようになった。文学は商品にもなるけどあきらかに商品の範疇に留まるものじゃないし、アート(芸術だったり技法だったり)であり、固定しておくことが難しい、もしかすると一瞬だけ形が見える運動体のようなものではないか、それがたまたま活字の形をとってる時間が長いから「文学」=本の一種、ということになっている……のでは?などと考えるようになった。
 源一郎先生を実際に目にするとその思いはより強くなる。目の前にいるのは商品作家やプロデューサーとかじゃなくて、なんだか運動家のようだ。引き締まった筋肉質の身体、フットワークの軽そうな足腰、不敵に微笑む眼鏡の奥の眼とか、僕でも知ってる往年の運動家に似ている。少なくとも職業書き物家の雰囲気とだいぶ違う。


 僕が前述のような「僕なりの文学の定義」を口にすると、源一郎先生はもっと簡明でわかりやすい「文学の定義」を話してくれた。これは次に出る新潮社「波」を見てみてほしい。27日(火)発売、というか刊行。大手書店のレジ前とかに置いてあって、頒布価格百円だけど実際は無料だと思います。担当の編集者が長い長いおしゃべりを短く簡潔にまとめてくださいました。


 源一郎先生がすごいのは、文学のためにいろいろと身体を動かすことを厭わないこと。たとえばTwitterでは「路上演奏」と題して深夜に連続ツイートする試みを2週間続けたりとか、なかなか常人にはできないことをやっておられる。これは僕もたった2カ月だけどブログを続けてみて、たいへん疲れるってわかった。今もまだダメージが抜けきらないくらいだ。Twitterはしかもリアルタイムだからよけいすごい。このメディアを文学的に使って、見る者の心に何かを残してやろうとするのはまったく楽しくて正しい試みだと思う。
 いまググってみたら、直近では「高橋源一郎氏「おれを批判している一部の現代詩人に応える」」なんて路上演奏ツイートをやっておられ、まとめサイトもできており、日々更新中だとわかった。すごいぞ源一郎先生。


 正直、この運動の最終的な目標は「革命」しかないんじゃないかと思う。そう思うと、多数大勢のファンがうっすらと好きこのんでついていく、という展開は期待薄みたいだけど、ロシア革命も中国革命も最初は文芸運動だったことを考えると、文学が不遇な現在というのがまた違った相貌で見えてきたりして面白いわけだ。


 ということで源一郎先生とお会いした雑感はこんな感じ。
 俺も焼きが回ったネ、こんな面白いネタを1週間も放っとくなんて。あの頃ならその晩のうちに書いてUPしてただろうに。でも希有な経験だった。過去29年間を筆一本で食べてきた、文学者なんだよ。珍しいね。