衝動——人を感動させるものは何か

 ニュースをほとんど見ない、見るのは「ゲゲゲの女房」の2分前ていどなんだけど、それでもわかるのは民主党代表選に小沢一郎が出馬することをマスコミ全員が嫌悪してる、なんとしても落としたがってる、ってことだろうか。
 なんで?
 日本の景気がボロボロなのに「消費税上げます」なんて口走った首相が、なんで「望ましい」の? 全然わからない。幕末なら、あの首相はあのひと言で官邸門外で首斬られてたんじゃないかな。挙げ句の果てに何の決議もできない議会を3年も放置するつもりなんて、万死に値するって。それが「首相がコロコロ変わるのは望ましくない」なんて理由でマスコミから支持されてる? マスコミってやっぱバカ? 「妖界は 水木政権 ゆるぎなし」? それはけっこうなんだけど、人間界はすでにぐらぐら揺らいでるんだから。超ドッグイヤーの幕末なんだから。「任期中は何もできません」っていうリーダー不適格者が首相に相応しいって、マスコミっていったい何なの……。
 などと、柄にもなくニュース見たり中吊り眺めたり日経新聞読んだりして頭に来ました。失礼、取り乱して。
 今日話したいのはそんなことではなくて、「表現衝動」についてです。ブログ「リストラなう」日記のほうで「無名人が本を出すには」というエントリを書き、「持ち込み原稿を読むのは苦痛だった」なんて泣き言を言ったのをちょっと反省したんです。
 モノになるかならないかわからない、完成度の低い原稿を読むのは辛い。これはもう動かしがたい真実だ。こういう、徒労にも似た作業に対して「未知の才能との出会い」とかを期待して前向きに取り組める人がいたら、正直そりゃ凄い、と思うよ。
 だけど、やっぱりそこには決して置き去りにできない大事なモノがある。もう本当に唯一無二の、他にはないモノとの出会い。それが「表現衝動」なのだ。


宇多丸さん激賞映画「SRサイタマノラッパー」が描いたモノは何か
 仕事してないので毎日もっぱら掃除炊事とかの家事をしている。ラジオを聴きながらやりたいのだが電波状況が悪く、iPodをラジオに繋げてPodcastばかり聴いている。会社に行ってた頃は聴く時間がなくてDLしたファイルが常に何十時間分も溜まってたが、今は新しいファイルが常に不足気味。そこで古いのをまた聴くわけだが、最近同じやつばかり繰り返し聴いてることに気がついた。
 一つは、2009年3月21日オンエアの「ザ・シネマ・ハスラー」、「SRサイタマノラッパー」の回(赤文字のリンクでMP3を聴けます)。
 これ去年聴いたときは「へえ、気合いの入った批評だな」とは思ったけど、実際に映画見てみようとは思わなかった。そもそも俺ヒップホップよくわかんねーし。
 しかし会社を辞めると決めてブログを書いてた頃から、何度かこのPodcastを聴き返すようになった。どうも気になる。ヒップホップに対する無知は相変わらずだけど。それよりなんで僕はこのPodcastに惹かれるのかが気になる。そしてDVDが出てから映画「SRサイタマノラッパー」を見た。やっと見た。何度も見た。そして繰り返し、またPodcastを聴いた。
 僕はこの映画を見ても、さすがに宇多丸さんのように号泣はしない。だけど、宇多丸さんがたびたび「こういうやつ本当にいるもん」「またこいつらと会いてぇ」と言う気持ちはすごくわかる。そして、ラストの焼き肉屋で突然始まるラップはやはり息を詰めて見てしまう。そこにはリズムの快楽はないし高揚もなく達成感もない。あるのは「やむにやまれぬ」としか形容できないモノが今ついに形をなした、名状しがたい迫力と緊張だ。
 宇多丸さんはよく「詩や文学からほど遠い最底辺の若者が、初めて自分の表現を獲得する、それがヒップホップだ」と言う。その瞬間の緊迫感が、「SRサイタマノラッパー」のラストでは鮮烈に描かれている。僕のようにヒップホップが嫌いだとしても、このシーンは見るたびに圧倒されて身動きができなくなる。この映画はフィクションだけど、まぎれもない真実の瞬間が描かれている。音楽としてのヒップホップは正直なかなか好きになれないが、この“ヒップホップの精神”はわかるよ。ていうか忘れてたのを思い出したよ。
 検索していたら、ラジオのこの回を録音して「SRサイタマノラッパー」のスチルと併せたものがYouTubeにあった。映画の雰囲気を見ながら宇多丸さんの批評を聴ける、なかなか良いファイルなのでリンクしておきます(ファイルは2つに分かれています)。
 
 


■MC紳士とMAD刃物「三十路の衝動」が歌い上げたモノは何か
 もう一つの頻繁に聴くファイルはこれだ。2010年5月15日オンエアのサタデーナイトラボ「タマフル的2010年最新クラブレポート」【前編】
 これは自由が丘でクラブ「アシッドパンダカフェ」を経営する高野政所(たかの・まんどころ)さんが最先端のクラブ事情をレポートする、と称して「アシパン」で行われるスットコドッコイなイベントの数々を紹介した回だが、これが何ともいーんですよ。政所さんの低音ボイスと飄々とした姿勢にはもう毎回ノックアウトされているのだが、このPodcastの聴き所は、ズバリ20分手前くらいからのラップ曲「三十路の衝動」。
 クラブ「アシパン」でデビューした、いい年こいた男2人のラッパー“MC紳士とMAD刃物”。彼らが歌う静かで切ないラップ「三十路の衝動」は、僕のようなラップ嫌いですら、いやラップ嫌いだからこそ、何度も魅入られたように聴き入ってしまう特別な曲なのだ。
 僕としてはPodcast宇多丸さんと政所さんの掛け合いとともに聴くのが一番楽しいと思うけど、すぐに聴きたい人はYouTubeが良いのかな。リンクを貼っておきます。
 
 どうですか。ラップになじめない、ヒップホップ門外漢の僕なのに、この曲は聴くたび涙が出ます。こないだ迂闊に電車で聴いて泣いた。バカですね。
 これはもうヒップホップとかのジャンルや形式を超えた、人間の尊厳にとって大切なモノを歌った名曲だ。すべての表現者が一度は必ず直面する問題を作品にまで昇華した希有なシロモノ。奇跡の作品だと思う。
「いつか生まれ変われるかな?/ラッパーになれるかな?」のリフレイン、そして繰り返し歌われる「衝動」という言葉。ここにすべての鍵がある。聴くたびにビンビン伝わるモノがある。
 人は誰しも欲求・衝動とともに生きている。「食う・寝る・ヤる」もそうだけど、同じくらい重たいのが「今の自分と違う自分になる」「他者に伝える」「他者から認められる」といった欲求・衝動だ。生理的な欲求じゃなくて社会的なモノだというのがミソか。もしかするとこれら社会的な欲求・衝動は、「ヤる(他者とつながる)」という原初的な欲求のバリエーションなのかもしれないが、現代社会で生きている僕たちは、これらの欲求・衝動に日々突き動かされ(衝き動かされ)、こづき回されて生きることを余儀なくされている。
 こういう衝動を満たすには、どうすればいいのか? 定職に就き職場に居場所を見つける。結婚し子どもを作り家庭を営む。こうすれば社会的に承認され、かつての独りだった自分(何者でもなかった自分)から「社員」「夫」「父」といった何者かになりおおせることができる。親に代表される“世間”は、こういう何者かだったら安心して迎え入れてくれる。“社会の一員”という言葉があるよね。あれだ。
 だけど、人間のうち何割かは「そうじゃなくて、もっとダイレクトに認められたい」という困った人がいる。そういう人が“表現者”となり、“夢(別名・呪い。(c)RHYMESTER)”を追いかけたり、何の役にも立たない“作品”とかを続々と生み出したりする。あるいは、衝動だけはあるけど作品を生み出す方法がわからず悪戦苦闘したり、どう見ても間違った方向へと突っ走って激突したり隘路に迷い込んだりする。
 人は「生まれ変わる」ことができない。きわめてゆっくりと何者かから何者かへと変わってゆくだけで、昆虫が羽化するようにある日劇的に変身することはできないのがヒトだ。だが、ヒトという生物は自分の意志で何者かへと変わることができる。蛹から成虫へ、幼獣から猛獣へとDNAの命令通りにしか変われない他の生物とはそこが違う。
「いつ」生まれ変われるかは知らないが、「ラッパー」にだってなれるだろう。現にこの2人、MC紳士とMAD刃物はラッパーになったじゃないか。格好いいラッパーかどうか、そんなこと知らないが、ヒップホップなんかに興味もない40男(四捨五入すれば50だ!)すら泣かせてるじゃないか。こんなに遠くまで届いてるじゃないか。
 この2人を「変わりたい」と思わせた「衝動」、こいつがライムに乗って僕たちのところに届く時、僕たちもまた突き動かされる(衝き動かされる)。元々彼らがどんな原因で「変わりたい」と思ったのかは問題じゃない。彼らを動かしたモメンタムが僕たちのところまで伝播するのだ。三十路かどうかも問題じゃなくて、というよりむしろ三十路だからこの衝動は彼らの中で練られ磨かれ純化され、いま鋭いエッジを以て僕らを突き刺すのだ。
 人間は大勢いる。まともな生き方をする人が多数派で全然かまわない。というかそうでないと困るかもね。でも、ごく少数のまともじゃない、衝動の大きすぎる者たちが、なんだか悪魔的な「表現」の魅力に取り憑かれ、世間の大半からの承認に背を向け、自分だけの基準で承認を勝ち取ろうとあがく。
 降って湧いた幸運が人を変えるんじゃない。“意志”をもって“あがく”ことだけが人を変える。その過程が内なる衝動に忠実であればあるほど、見る者聴く者を衝き動かさずにはいないだろう。そのすべてのプロセスが5分という短時間に凝縮されたのが「三十路の衝動」という曲なのだと思う。


■すべては「表現衝動」を大切にするためにあるべきだ
 僕に「表現衝動」という言葉を教えてくれたのは、九州でファシスト運動体「我々団」をやっている外山恒一さんだ。2007年の都知事選に出馬して衝撃の政見放送で話題になった彼。
 いやもちろん「表現」という言葉も「衝動」という言葉も知っていたけれど、「表現衝動」が人間にとってどれほど大切なモノかをリアルに見せてくれたのが外山恒一なのだ(公人なので以下敬称略。ところで今この政見放送を見ると「やっぱり凄いな」と思う反面、「ああ、何年経ってもこれに夢中な俺ってバカだな」と思うネ)。
 外山恒一の政治運動は政治運動であると同時にある種のアートであり、アートの悪魔的な力を以て人を動かすという、近頃の政治家にあらざる非常識な運動だ。彼自身が言うように、彼について行く人はきわめて少数だ。さすが「我々少数派」を名乗るだけある。
 だがそれでいい、と彼は苦しみながらもそのスタイルを変えない。彼自身をメジャーにする戦略戦術は可能だろう。だがそれで彼の出発点となった衝動が曲げられたら。それはいかん、ということで外山恒一は妥協なき今の運動スタイルを貫いている、のだと僕は思う。僕は彼が好きだ。
 これは別に政治運動に限ったことじゃなくて、むしろ商業出版などエンタテインメント市場でもう一度腰を据えて考えるべき問題だと思う。「リストラなう日記」で「無名人が本を出すには」では、「情熱なんかの話はしたくない」と身も蓋もないことを書いたが、それは一面心の底からそう思うのだが、それでも、「これを読んでもらいたい」「読者を衝き動かしたい」「認められたい」という欲求=情熱は大切なのだ。むしろ、本を出すとかブログに載せるといった手段は、すべて最初の「衝動」をストレートに他人に伝えるための手段として従属するもので、そこを目的とはき違えるとダメなのだ。
 伝えたいことがある、いや伝わらなくてもいいから表現したいことがある。それでいい。それを、なるべく伝えたいので校閲して誤字脱字をなくす。読みやすいように工夫する。大勢に読まれたいと思ったら宣伝する。本にするならどういう方法がもっとも「この表現」に適しているか考える。
 よくある倒錯が「本にするために表現を変えましょう」というやつだ。僕は出版社にいたときはこのとてつもない本末転倒に気づいていなかった。大手出版社から人気漫画家が、単行本の台詞を変えてくれ、と言われて出版社を移籍する騒動になったと聞いた。出版社側の人間には、起きていることの意味がわからないだろう。だが僕は最近やっと、それがなぜ倒錯なのか理解できるようになった。外山恒一、ライムスター宇多丸、その他もろもろのメンターのおかげだ。「僕はどうしてこの作品に泣くのか」をじっくり考える時間ができたせいでもある。
 逆に、「表現したい」「伝えたい」という初期の衝動を大事にするためなら、他のどんなことにも妥協する勇気を持つべきだ、とも思う。誰かに読んでもらいたいなら酷評も甘んじて受けるべきだし、その他もろもろの不愉快なこととも付き合っていかなくては……おっと、自分でもなかなか実行できないことを偉そうに書いちゃってるな俺。あと、プロになった人が「衝動」で仕事すると周りが迷惑するってこともあるしな。お金の問題もある。それ一本で食っていくなら尚更お金は重要だ。ことさら表現衝動に忠実であろうとして食うこともできない、肝心の表現ができないってなったら……そう、「SRサイタマノラッパー」を作った入江悠監督が「上映を促進すればするほど食えない」というジレンマに陥ってるように、この問題は容易に解決できない(「"SAVE THE 入江悠監督"自主制作映画はつらいよ特集!!」)。
 新人賞その他の登竜門が、業界に新たな「表現衝動」の担い手を連れてくるシステムとして機能すると良いな、と思う。書きたい人と読みたい人をマッチングさせるというかね。
 バーターとカルテルマーケティングとプロモーション、ネームバリューにビッグバジェットといった“大人の事情”がすべての業界で幅をきかせてるけど、そうじゃないところからポッと出てきて僕らの心を震わせる何かがある。それは誰にでもある「表現衝動」、表現するのに何の資格も要らない「表現衝動」なのだ。それはまぎれもなく、僕らの目の前にある。


※なんて偉そうに書きましたが、そもそもライムスターとかこういうことをずっと歌ってきてるわけだよね。ここに「ONCE AGAIN」の歌詞があったけど、昔から宇多丸さんたちは一貫してるわけで。ああ、御免。でも僕もこういうことを書きたくなったわけで。