幕末のエッセイストたちへの共感

■風の強い日である。台風のせいなのか? 場所によってはまっすぐ歩けないほどの強さで吹いている。今日は外出しないほうがいいのか。
 外に出ないときは家事をしたり(直近のテーマは水周りの錆取りだ)、夕食の下ごしらえをしたりでけっこう時間が過ぎていく。もう中年も折り返し過ぎだから時間が過ぎる感覚が矢のようなのだ。これまで生きてきた累積時間との対比で今日一日の長さを感じている、というか、一日一日の重さがかぎりなく軽くなっていく。仕事もせず誰ともコミュニケートしない日々はとくに速く過ぎる。その軽さ、鴻毛のごとし。


■相変わらず読むものは野口武彦先生の著作だ。『江戸のヨブ—われらが同時代・幕末』(1999中央公論新社)はずっしりと読み応えのある、それでいて軽妙なエッセイ群だ。
 表題作のエッセイは大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)という無位の旗本について述べたものだ。野口先生は醇堂を大いに気に入っておられるようで、2005年には『幕末の毒舌家』(中央公論新社)というまるまる一冊を醇堂について述べた著作にもなさっている。
 醇堂は幕府瓦解(明治維新)の年を三十歳で迎えた。若い頃、幕府が行った若手・非役の幕臣子弟を臨時に抜擢する学問吟味の試験(国家公務員上級試験に相当するらしい)になんとかパスしたのはいいが、すでに祖父・父が役についていたため「三代現役で番入りは不可」というルールに引っかかって仕官がかなわなかった。実はそのとき祖父はすでに死んでおり、その死を秘して俸禄を不正受給していたのだという。
 最近、百歳を越えるめでたい高齢者が実はほとんど死んでいて遺族が年金を不正受給するために届けてないだけだ、ということが明らかになっているそうですね。こういうのは江戸の昔から日本の伝統だったわけだ。井伊直弼も首を切られて2カ月くらいは生きてたことになってたことだし。
 死ぬような努力をして学問吟味に受かった若い醇堂(二十四歳だった)はどれほど悔しかっただろうか。番入りにふさわしい力をつけ、有為の未来を持っている自分が、ただ生前の俸禄が高いからというだけで死を伏せられた祖父(これは醇堂の父の判断だったらしい)に負けたのである。醇堂は漢学のほか漢詩・和歌・狂歌俳諧を修め、さらに武道も剣・柔・馬・弓・砲術を学んだという。当今の大学生の就活にまさるとも劣らない努力。緊張すると下痢する体質や、胃酸過多でつねに苦い体液が口中に戻る心身症的な持病との闘い。彼の悩みはいずれも驚くほど現代的だ。
 こうして深いルサンチマンを抱えた醇堂は、その恨みを日々エッセイを書き溜めることにぶつけていく。残された膨大な原稿は、幕府末期の裏面史として、また幕末を生きた“志士ではない”人々の精神史として、野口先生をはじめとする歴史家から高い評価を得ている。


■もう一人、プレ幕末期のエッセイストが紹介されている。『反古のうらがき』という作品を残した鈴木桃野(とうや)である。幸田露伴なんかもその影響を受けたというが、野口先生の紹介のなかで僕がグッと来たのはそこではない。
 桃野のエッセイは化成期から天保嘉永あたりまでが対象になってるらしいが、この頃の江戸には武家で精神を病む者が多かったのだという。立派な教養を持ちながら時折激しい狂態に我を失うため屋敷の庭先の牢に暮らす友人。鼻が顔より大きくなった、死にたい、と泣き叫ぶ大名の姫君。布団の中にいると手がどんどん大きくなると感じて眠れなくなりついに大病を患った友人。いずれも身体症状ではなく幻覚の類らしい。
 つげ義春の作品…何だったか、「夜寝ていて背中のほうから巨人になっていくほど怖いことはない」という台詞があったと思う。「ゲンセンカン主人」だったか、夢を描いた作品群のどれかだったか。すごく似ていると思う。
 醇堂や桃野の文を読み、それが現代の僕たちが直面している煮詰まった状況とどれほど似ているか、改めて感銘を受けるわけだが、野口先生は「現代の東京とどうこうとは言うのも野暮である」と深追いしない。


■醇堂も桃野も、無役の旗本だった。醇堂は明治も半ば過ぎまで裏店で逼塞しつつ健筆を振るって生きたらしい。桃野は自身が五十代になって長生きだった父が死に、やっと家督を継いだ。役がついてさてこれからという時に突然死し、嘉永六年(1853)のペリー来航に始まる幕末動乱を見ずに逝ってしまった。もし生きていればどんなふうに幕末を描写したか、興味あるところだが。
 この二人はいずれも幕末のブロガー、と呼んでいいと思う。
 世界の大変動に対して機敏に反応しつつタフにスピーディに生きる人たちがいる一方で、無聊をかこち、やる気ナッシングだけど表現衝動だけは抑えきれない、そんな困った人たちが世界には必ずいる。警鐘を鳴らしたり卓見を述べるのではなく、些細な事実を書き留め、うつろう心象風景を文字に残す。ただそれだけの、誰かから顧みられることを期待しない行為。まさしくブロガーだ。日本語のブログは人口比を考えると英語圏よりずっと盛んだって話があるけど、江戸の昔からの伝統なんだからむべなるかな。僕も及ばずながらお二人のような困った人たちの末席につらなる者なんじゃないか、と自分で思ったり。


■ちょっと前まで僕が住んでいた雑司が谷なんだけど、「東海道四谷怪談」の舞台だったそうだ。赤い電車が外堀を走る四谷ではなく、雑司ヶ谷四谷町というところに民谷伊右衛門はおり、岩の死骸を戸板に打ち付けて面影橋のあたりから神田上水に流したのだという(『江戸のヨブ』所収「江戸文学の地下水景」)。
 雑司が谷というと長谷川平蔵の私邸が近隣の目白台にあり、お鷹番・お鳥見番の屋敷があり、という程度しか江戸とのつながりを知らなかった。雑司が谷霊園は明治になって無名兵士の墓地として始まったと聞いていたので、江戸期の人が葬られているのは都心から引っ越してきたのだと思っていた。鬼あざみ清吉とか小栗上野介忠順の墓所があります。
 そうじゃなかったんだね。こんなホラーの名作の舞台になってたんだ。ホラー映画「呪怨」が東京西郊の少し古い新興住宅地を舞台にしてたのを思い出す。鶴屋南北にとって雑司ヶ谷はそういう感じのロケーションだったのかな? もっとも雑司ヶ谷四谷町という町名は実在しないそうですが。
 無聊をかこっていると、なんとなく身体感覚が狂ってきて、直近のことどもがリアルに感じられず、数百年前の人々の息吹をなんだか熱くうるさく感じてしまう瞬間がある。うーん。
 そして小栗上野介は、幕府が近代軍の装備をするために幕臣全員の扶持の半分を召し上げるという大改革をやった人だ。いきなり給与半減ですよ。幕末、大リストラなう、ですよ。その金で軍艦を買い、横須賀に製鉄所を作ったんですね。醇堂たちのような、やる気のない、いややりたくてもやる事がない窓際幕臣は扶持半減から江戸城開城、瓦解に至る激動をどう見ていたのだろうか。