隠退ナイスデイ

 早くも12月になってしまった。5月末に退職してから半年が経過したということだ。
 前にも書いたように、僕は雇用保険の失業給付をもらいながら、再就職へのふんぎりがつかずにボヤボヤと毎日を過ごしている。失業給付はあと6カ月分残っている(1カ月認定に行かなかったので)。月額にすると約20万円。まるまる手取りだから、給与20万円の仕事口につくより手取りは多い。失業給付をソデにして再就職するとして、手取り20万円を実現するには額面いくらの仕事につけばいいのか? こんな計算するより就職しないで寝てるほうが手っ取り早い、というのは誰でもわかりますね(笑)。
 我ながら自堕落な態度だと思う。また、せっぱ詰まった事情を抱えて失業しているのに給付が少ない人から僕を見ると腹立たしいだろう(僕は勤続年数が長く前職の給与が高かった、また会社都合退職なので金額・期間ともにフルサイズの給付を受けている)。
 俺は十分恵まれてる、こんな制度の世話になんかならないよ!と給付を叩き返したりすれば格好いいだろうな、と思う。倫理的にはそういう行動が正しいだろう(どういう倫理を選ぶかにもよるが)。だけどカネというシステムの下では、そういう行動は「経済合理性がない」というわけで普通は選択されない。だから僕は毎月、ハローワークに出かけてゆき、認定を受け、「ツェねずみ」が金平糖をコチコチ食べるように(宮沢賢治)給付金を受け取っている。気分は晴れないが懐は潤う。ありがたい。


 経済状況はこんな感じで今のとこ何の問題もない。来年6月に給付は切れるけどね。
 退職してぶらぶらしていることの最大の問題は、やることがないストレスの大きさだ。これは健康面にけっこう大きな影響を及ぼす。
 うすうす予感していたけど、やっぱり「やることがない」という状態は僕のような古い日本人男性にとってはけっこうストレスなのだった。会社という組織形態が、古いタイプの人間を心地よく効率的に働かせる、気持ちよく働かせることで健康にも良い影響がある、というふうに巧妙にデザインされたものだということは、会社を離れないと実感できない。定年退職した男性が隠退生活にうまく軟着陸できないっていうのもやっとわかったよ。
 とくに今年の夏は暑く、毎日暇にしているのが苦しかった。会社に出勤すると社屋は冷房が効いていたんだ、という事実もいまさら再認識した(笑)。
 さすがに秋が来ると、毎日やることがない状態にもだんだん慣れてきた。隠退生活を楽しむコツがやっとわかってきたのだ。


 僕はいま家事をやるのが楽しい。洗濯・掃除(掃除は毎日じゃないけど)、そして料理が楽しい。とくに料理は、原初的な創作衝動を満たしてくれるし、安いコストで美味しい食事を得られるし、素晴らしい。1回目は上手くできるのに2回目はなぜか必ずイマイチになってしまうというのも面白い。たまに「自炊なんてかったりーぜ」と投げ出したくなるが、それでもなんとか続いている。
 それでも気持ちが晴れないときは近所を散歩する。ウォーキングだ。靴ずれしなくなった新しい靴を履いて、落ち葉が舞う桜の並木道を歩く。この時期、きれいに紅葉した桜の落ち葉が川を暗渠にした遊歩道をびっしりと埋め尽くす。まだ枝に残っている紅葉が柔らかな陽射しを浴びてさまざまな暖色にきらめく。風がそれらを舞わせる。溜息が出るほど美しい光景だ。こんなふうに昼間散歩したことがほとんどなかった。土日の昼間は人通りが多い。平日の、歩く人もまばらな遊歩道の光景は奇跡的な美しさだ。ベンチには僕のように正体不明の中年男性が腰掛けて本を読んだりパンを囓ったりしている。ご同輩、お元気で。
 家事をやりながらPodcastTBSラジオの番組を聴く。「キラキラ」の上杉隆町山智浩の回、「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」「文化系トークラジオLife」が好き。とくに最近は「Life」の古いPodcastをダウンロードして聴くのが楽しい。時間はいくらでもあるのですぐに聴くものがなくなるんじゃないかと思ってたけど、実際は家事をやってる1、2時間と歩いてる1時間くらいしかなくて最大でも1日3時間、ネット上の膨大なコンテンツは聴き尽くすことができない。
 本は…あまり読まなくなった。とくに夜は寝転がったらさっさと寝てしまうので。今年はいろんな方からいろんな本をいただいたので感想をブログに書かなきゃ、と思いつつ、それができずにいる。
 あまりに生きてる負荷が低くてストレスが溜まるときは、発表するアテのない原稿を書いて憂さ晴らしをする。いつかブログに載せちゃお、と思っていると気持ちよく筆が進み憂さが晴れる。そしてブログに載せるのも忘れてしまう。


 発表するアテのないテキストを書いていると、自分がムーミンパパになったような気になる。
 ムーミンパパはまだ学齢とおぼしき息子がいるのに、すでに隠退している人だ(正確には妖精だが)。ムーミンの世界には通貨が見当たらないので彼らの活計(たつき)の途(みち)がナニなのかは描写されない。ムーミンの世界は登場人物全員が隠退してるようなものかもしれない。
wikipediaによると、原作者自身が「私のムーミンはノー・カー、ノー・マネー、ノー・ファイト」と言ってるらしい。クルマとカネと争いがない世界、つまり金を稼ぐための仕事はないわけだ。なるほど)
 で、ムーミンパパだが、彼は若い頃は船乗りで冒険家だったが、今はムーミンママとムーミントロールとその他の居候たちと暮らしながら、なにやら回想録を執筆している。担当編集者はいないようだし、おそらく出版のアテがあって(発注されて)書いてるのではなくて、自発的に書いてるのだと思う。
 ずっと前から「ムーミンパパは老後を生きてるようだナ」と思っていたが、今やこれは確信に変わりつつある。彼は、そんなに年を取ってるわけじゃないのだが(かなり晩婚だったとは思うが)、すっかり余生を生きている。何もするアテはない。
 これは何の反映だろうか。
 あくせく働かなくても適当に生きている、という雰囲気は、フィンランドの充実した社会保障制度が背景にあるからか? あるいは、何世紀もの長い長いスパンで衰退していく北欧の国、文化面では先進的だけど人口は小さく成長余力は少なく晩婚・少子・高齢化が慢性的な社会のカリカチュアなのか。


 ところで日本でアニメになった「ムーミン」には主人公のガールフレンドとして「ノンノン」というキャラがいたが、これが原作者には「NoとかNonという否定的な意にとれる」と不評で、後に改名されたという(wikipediaによる)。日本の製作スタッフがまったくこれに気づかなかったのはなぜか。また僕たちが「ノンノン」という名にちょっと愛着を感じ、好意的な印象を持つのはなぜか。同じくWikiによるとキャラ名の元は「監督の妻の愛称」だそうだが、そういう小さな話じゃなくて、たぶん日本語の「安穏(あんのん)」の「穏」に通じる語感から命名された、視聴者も良い感じを受けた、のではないか。集英社が「ノンノ」を創刊したのはムーミンのアニメ放映後だな、意識してたかな。しねーだろか。
(世界にはノーとかノンとかナインとかニェットとかNのつく単語で否定する言葉がいっぱいある。中国語では不是だからNじゃないけど強めの短い単語なのは似ている気がする。日本語には短く強い否定の言葉が見当たらない。西日本には「いらん」「あかん(いけん)」という強い一単語があるが、東日本ではどう言うのかな?)


 散歩していると、路地裏や空き地の隅に野良猫・地域猫・外飼い猫を見かける。誰かから餌をもらっているので呑気で人なつこい野良猫もいて、そういうのに出会うと首の後ろを掻いたりしてやる。
 こいつらは本来なら一日のうち起きてる時間のほとんどを食べ物を求めて活動するはずだが、物好きな篤志家や放任する飼い主のおかげで食の心配をすることなく野天を駆け回り好き勝手にしている。今の僕のようだ。なんて恵まれてるんだ俺。
 だけど野天で生きる猫は寿命が極端に短く、平均で4年だという。食べ物を保証された地域猫ですら、屋内の飼い猫にはとうてい及ばず5年くらいという話がある(屋内の飼い猫は10年以上生きる)。
 公的扶助による餌がなくなったら僕はどうなる/どうするのかな? 野天に対して雨露を凌いでくれる屋根や壁に相当するのは何か。仕事か。だけどどこか会社に所属することは必ずしも屋根にならない、というのは経験した。では何が確かなものなのか。
 そんなことを考えながら書いたんだけど、せっかくなのでこのテキストはエントリにしてみようと思う。