犬税を取ってはどうだろうか?

 
 お気に入りの散歩道を歩いてて、ふとヤバいものを見つけて足がタタラを踏む。そう、犬の糞。
 写真のものはすでに誰かに踏まれて敷石の凹凸に擦り込まれている。どんな方が踏まれたのか知らないが、可哀相なことだ。お気に入りの靴の裏に怪しい臭いを放つ有機物をつけたまま歩き続け、自宅玄関まで入ってしまったかもしれない。あるいは、どっかの食べ物屋に入って臭気の元を置いてきたかもしれない。恐ろしいことだ。
 この散歩道には、あちこちに「犬の糞は持ち帰りましょう」「犬のブラッシングをして毛を放置しないでください」といった立て札がある。美しい花壇の草花や立派な桜の並木に、いたくがっかりする内容の立て札がついているのだ。それもかなりの数。それでも糞の放置はなくならない。


 おりしも国でも地方でも税収が不足してて、一般消費税の値上げは近い将来避けられないところだ。一般消費税を増税されるとちょっと辛いので、ここは特別消費税を設けてはどうか。そう、飼い犬に課税するのである。


 もちろん盲導犬聴導犬その他の介助犬は免税する。というか課税対象にしない。牧羊犬その他の使役犬も非課税。アマチュア猟師の猟犬は課税対象とすべきか。警察犬や麻薬捜査犬は公的機関のものなのでもちろん課税対象外。対象となるのは、そう、愛玩用に飼われている駄犬どもである。
 というか、税を払うのは飼い主なので、つまり愛玩用に犬を飼うことに対して課税するのだ。もちろん目的税である。愛玩用飼い犬による被害を救済するために使われる。たとえば、糞を放置する飼い主を検挙する賞金にする。尿で汚れた電柱・私有建物の洗浄代金。公営ドッグランの設置にも使おう。
 だが最大の使途は、無駄吠えする犬を減らすための愛玩犬税等級認定センター(仮称)の設置と維持である。


 愛玩犬税(通称・バカ犬税)は、段階的に課税される。自動車重量税が車両の重さ、つまり道路を損傷させる度合いに応じて課税されるように、バカ犬税はバカ犬が存在することで社会の迷惑になっている度合いに応じて課税されるのだ。
 まず、無駄に吠える犬はもっとも重税を課す。額はいかほどか、課税者にお任せするが、僕としては月額5000円くらいが適当かと思う。このくらい課税されるリスクがあると飼い主が思えば、駄犬の無駄吠えをやめさせるインセンティブになるのではないか。
 他の犬を見かけるとバカに興奮する犬は、その迷惑度に応じて課税等級を上げる。体重が重い大型犬が興奮してはしゃいで他の通行人を怯えさせたり道幅いっぱいに暴れたりすると税は高くなる。ただし、小型犬・超小型犬でもうるさかったり鳴き声が甲高くて遠くまで聞こえるようなら税は高い。犬の大きさと税額が比例するわけではない。頻繁におしっこ(マーキング)する犬も税が高い。
 税額と大きさが比例するのではなく、迷惑度と比例する。だからまったく吠えない大型犬はたいへん税が安い。むしろ、イタチくらいの大きさでもバカ犬は高い。ミニチュアダックスを8匹も飼い、多頭立て犬橇のようにリードを道一杯にひろげて散歩しておられる御仁は、毎月4万円もの納税をして社会に貢献なさることになろう。
 バカ犬と名犬とを鑑別するのが愛玩犬税等級認定センター(仮称)である。ここでは競走馬にゲート試験を課すように、いくつかの課題を提示し、それによってバカ犬度を判定する。バカ犬度判定は毎月受付で、飼い主は希望すれば月に一度だけ、等級を変更できる。訓練して吠えないようになった愛犬は次の月から税の等級が下がるのである。がんばれ。
 ただし、以前は名犬だったのに最近はなんだか吠えまくりで駄犬になった、というケースもあろう。そういうのは迷惑を被ってる近所の方が匿名で通報すれば、センターから「等級再審査に来てください」と呼びつけることができる。これに応じないと問答無用で次の月から等級が最高になる。
 バカ犬税を納めると納税者証として100円玉くらいの鑑札をもらえる。これをドッグタグとして首輪につける。これは必須の義務で、タグのない愛玩犬は脱税犬としてセンターが接収し、希望者に再配布する。無責任な飼い主に飼われるのは犬の不幸だからである。
 鑑札は月ごとに色だかデザインが変化し、パッと見で「先月は納税済みだな」とわかる。先々月のタグのままだったりすると、これも即接収。
 市民からの通報でセンターは出動する。また、市民は糞を持ち帰らない無責任飼い主に対して逮捕権を行使できる。市民は、無駄吠えするバカ犬の飼い主に対して、その犬の等級を下げるべく努力するよう要請できる。


 バカ犬税は、犬を減らそうと意図するものではない。犬や飼い主を弾圧するものではない。社会からバカ犬を減らして、犬を愛する者も愛さない者も等しく幸せを享受できるようにしたい、という目的だ。そのためのインセンティブになれば良いなと思うのだ。
 猫には課税は考えてない。私は犬は嫌いだが(静かな大型犬は好きだ)、猫は全般的に好きだからだ。猫は吠えないし。


 バカ犬税が非常に恣意的な、偏りがある法制であることは認める。エッチなアニメやマンガは規制する、同様の内容でも実写映画や小説は除く、というへんてこな法制が存在する世の中だから、バカ犬税ももしかしたら可能なんじゃないかと思って散歩中に考えたまでだ。考え事しながら歩いてて何か軟らかいものを踏んだような気がする。


【追伸】これは思いつきで書いたエントリで、何も調べずに書き散らしたのだけど、ちょっと前にそんなニュースがあったんですね。知らなかったよ。

石原都政の12年間は、東京に致命的なダメージを残したかも

■こないだから石原慎太郎都知事のことを考えていたのだけど、彼にすごく似た人を僕は以前、知っていた。自分のことを頭が良いと思い、派手好き・一流好きで、歯に衣着せぬ言動が売りのリーダー。
 僕が退職した会社の、前の社長だ。
 ブログ「リストラなう日記」には“大殿様”というコードネームでご登場いただいた(その27 下々から見た“大殿様”とその時代)。
 彼に関してはあの会社の誰もがいろいろ思うところがあるだろう。辞めた者も、今もいる者も。おおむね誰もが認めるだろう特徴は、「派手好きで会社のカネを使うのが好き」「言動が傲岸不遜」「頭が切れる人だった」というところだろう。これ、どれも石原慎太郎都知事と似てる。すごく似てる。


石原慎太郎都知事に関して、去年のIOC総会への旅行代金が飛んでもない額だったという契約書の画像が出回ってて話題だ。その額、1億1924万円だそうです。
 純然たる旅行代金だとすると高すぎるよね。IOC委員への工作費(贈賄?)も含まれてるとしたら妥当でしょうか。
 いやそんなことより、石原慎太郎都知事にはガラパゴス豪遊疑惑とか親族芸術家採用疑惑とか五輪招致でゼネコン利益誘導疑惑とか新銀行東京無軌道融資疑惑とか、余人をもって代え難い吝嗇容疑がいろいろある。舌禍事件よりもこっちが気になる人も多かろう。
 僕が退職した会社の前社長には石原慎太郎都知事のような醜聞めいた話はない。ないけど、失敗したグラフ週刊誌への大規模投資だとか、ン十周年記念パーティの豪華さとか、会長に退いたとき社用のメルセデスを新たに購入とか、会社のカネを使うのが大好きだったという話はすごくよく聞いた。このへんのメンタリティが石原慎太郎都知事と似てるなあ、と思った。


■それよりも、もっと似てることがある、と今日思い至った。二人とも、前世代のリーダーの遺産を食いつぶし、将来の禍根に何ら手を打つことなく退場したことだ(ごめん、石原慎太郎都知事はまだ退場してないね。でもこれからも期待できないので)。
 僕がいた会社には“大殿様”の先々代が築いた莫大な内部留保があった。“大殿様”はそれを使って媒体のスクラップ&ビルドを大々的にやった。スクラップ云々と言えば聞こえは良いが、実際は死屍累々。そして何より、“大殿様”の任期中に会社の財務体質はメロメロになった。カネはある、あるはずだ、と信じて大金のかかる創刊や人事を繰り返した挙げ句、現経営陣が就任してみるとリストラを余儀なくされるまでに会社の財務は傾いていたのだ。
 石原慎太郎都政は“大殿様”の悪い癖に似ている。アタマが良さそうに見える思いつきを実行に移し、膨大なカネを投じ、失敗するというパターン。新銀行東京とかそんな感じ。銀行への外形標準課税というのもありましたね。
 でも、僕はそういうのは危機の本質じゃないと思ってる。問題なのはこの2人のリーダーが、近未来の危機を直視しようとしなかったことだ。最大の問題から目をそらしていたことだ。


■あの出版社の場合、“大殿様”が雑誌を店じまいしたり創刊したりの間、ずーっと業績は落ち続けていた。だけど“大殿様”の任期中は根本的な対策は何もせず、本業が赤字決算でも「副業の収益があるので連結では黒字」と賞与を払い続けていた。賞与がたっぷり出ていた間、マヌケなことに全社員が危機意識を持つことなく来てしまったのだ。
 東京都は新銀行東京の追加投資に400億円とか、実は損失はもっとあるとか、言われる。だけど東京都は日本でいちばん裕福な自治体なのでそんなカネは余裕でファイナンスできる、という。
 ほんとか?
 前に『デフレの正体 ――経済は「人口の波」で動く』という本について触れた(消える読者、消えるジャンル)。この本は人口動態で日本の問題点を見た、という本で、通説をぶち破る見方がいっぱい出てて面白い。
 なかでも凄いな、と思ったのは「現役世代の減少と高齢化は、首都圏がもっとも著しい」というトピックだ。ふつうは誰もが、「東京は地域間格差の頂点に位置する勝ち組」と思ってるでしょ? でもホントは違うんだな。東京は少子高齢化のトップに立ってて、じきに大きな負担・需要不足・現役世代不足に直面する。働き手が不足するのではなく、需要が不足するということが致命的なのだ。
 石原慎太郎都知事は「東京にはカネがある」とか言ってうそぶくだろうが、そのカネもじきにみーんな高齢者が放さない死に金になり、消費意欲の高い若者は人数も可処分所得も減り、消費も景気も下降スパイラルに突入する。沖縄県なんかは人口が増えてるので有望らしい。東京は今のところ「良く」見えるだけに、目に見えて落ち始めたらきっと「落差」は激しいぞ。
 どうする? 高齢富裕層に対する外形標準課税でもやるか? それは自分自身に返ってくるな。それに東京の苦境が露見する頃にはもう都知事引退してるだろうし。他の自治体に逃げるかね。いっそ海外とか?
 いや、もう慎太郎都知事なんて人のことはどうでもいい。問題は、くだらないことに騒いで12年間が無為に過ぎ去り、僕たち都民が石原慎太郎都知事といっしょになって「結局東京は日本一なんだから」という無根拠な優越感に浸っているうちに、取り返しがつかない局面を過ぎてしまったんじゃないか、ということだ。

東京都で選挙権持って暮らすことを恥ずかしく思う

 東京都知事石原慎太郎氏がまた変なことを言った、と聞いた。

石原都知事:同性愛者「やっぱり足りない感じ」
 東京都の石原慎太郎知事は7日、同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と発言した。石原知事は3日にPTA団体から性的な漫画の規制強化を陳情された際、「テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやるでしょ。日本は野放図になり過ぎている」と述べており、その真意を確認する記者の質問に答えた。

 7日の石原知事は、過去に米・サンフランシスコを視察した際の記憶として、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演に関しては、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した。【真野森作】
毎日jp毎日新聞 2010年12月7日 23時08分(最終更新 12月7日 23時54分)

 慎太郎氏の言説が科学的に妥当かどうかはさておくが。こういう言説を聞くと、僕はこう思う。
「何か大切なものが足りない感じがする。高齢で脳がうまく働いていない、とかのせいじゃなくて。そもそも人間的な何かが足りないせいでしょう。自分がマジョリティであると自信を持ってマイノリティを見下すなんて品性、気の毒ですよ」
都知事の会見は見ませんけど、見てたら本当に気の毒だと思うでしょうね。テレビなんかでも会見だけじゃなくて羽田空港新ターミナル紹介番組とかに出てきて平気でやるでしょ。日本は野放図になり過ぎている」
「暴言をことさら『タブーを破る言説』などと売り物にし、批判されたら逆ギレしてどうのこうのするってのは、外国じゃ例があるんですかね。日本じゃこの人が先例多数ですけど」


 慎太郎の「慎」という字は「つつしむ」と読み、「あやまちや軽はずみなことがないように気をつける」との意だ。
 僕は、東京都に住んで都知事選挙の選挙権を持っていることを恥ずかしく思う。本当にすみません、こんな輩を選んでしまって。って俺は前回は外山恒一に投票したんだが。あまつさえ石原慎太郎都知事を続けており、それに対して何もしてないことが恥ずかしいよ。
 今度は、この人物が都知事にならないよう最大限の努力をせねば(出ないとか言っといてどうせ最後に立候補するからね)。


 http://www.jguide.net/city/tokyo/shinjuku-w/400t_RIMG7617~WM.jpg

古い本だけど『羊たちの沈黙』はやっぱり面白い

 何年かおきにふと読み返したくなる本がありませんか?
 僕にはあります。マーヴィン・ハリスヒトはなぜヒトを食べたか』、デイヴィッド・T・コートライト『ドラッグは世界をいかに変えたか』、岡田英弘歴史とはなにか』…。引越のときにほとんどすべての本を処分したのですが、これらとあと数冊だけは手放せませんでした。今も狭い部屋の隅っこに立っています。
 小説はほとんど読まないのですが、時々無性に読みたくなる本が1冊だけあります。トマス・ハリス羊たちの沈黙』です。


■『羊たち』というと圧倒的に映画の記憶のほうが鮮明ですよね、きっと。ジョディ・フォスターアンソニー・ホプキンス。ホプキンスはレクター博士が生涯の当たり役になったし、フォスターも強烈な印象を残しました。続編「ハンニバル」でクラリス役をキャストされたジュリアン・ムーアは少し可哀相でしたね。フォスターの劣化コピーのように見られて。好きな俳優ですけど。
 でも、僕はこの作品に限っては小説のほうが好きです。
 映画が素晴らしい作品だってことはもちろん認めます。ジョナサン・デミの監督も良い。低予算をものともせず、しっとりとしたインディペンデントっぽい画面で、戦慄の映像世界を構築しています。脚本も良い。ディテールが精緻でそのままの再現は不可能な原作を、手練の職人技で切り貼りして原作の本質を継承し、新しい魅力を創造している。奇跡のような作品です。
 でも、僕は小説版が好き。この新潮文庫は何度読んだかわからない。


■最初に読んだのは、映画が公開される直前だったと思います。飲み屋で読書家の飲み友達が「羊たちの沈黙は良かったよ」と教えてくれたのが平成2年くらいだったかと。文庫本のカバーは映画のイメージだったかな? もしかしてもしかすると、クラリススターリングの顔じゃなかったかも。
 この翻訳書は訳がちょっと堅くて、カタカナ表記の外来語や固有名に癖があります。味わいのある大好きな訳なんですけど、読みやすいとは言えない。でも、そんなこと気にならないくらい惹き込まれました。もともとハリスの原文はリズムが良く、読みやすいのです(僕は『ハンニバル』はハードカバーで読みました。面白い作品なら英語が気にならないことも稀にあるのです)。『羊たち』はきらきらした技巧的なとこもあるのでちょっとウザいのですが、それでもぐいぐい引っぱられる名文・名訳です。
「プロファイリング」という捜査概念も当時は新しかった。『FBI心理分析官』がこのちょっと後に流行りましたねえ。
 読んでから映画を見たのだけど、まとめ方の上手さに舌を巻きました。原作も映画も双方良い。スタッフとも読者・観客とも幸せな出会いをした、稀有に幸運な作品だと思います。


■それから何年かに一度、ふと読みたくなって読み返していました。20代から30代半ばまではとくに女主人公クラリスに感情移入しましたね。
 彼女はFBIアカデミーの学生という立場で現場仕事に抜擢され、本物の犯罪者や現場を牛耳る男たちの権力関係に巻き込まれ苦闘します。現実の犯罪(人質の命がかかっている)と、現場の人間関係、無理解な上司、理解はあるけど力の限られた直属上司、迫り来る試験と足らない単位……多面的にヒロインを追い込む絶妙なスリラーになってますね。彼女の奮闘は、下積みでなかなか報われることのない様子が若手サラリーマンだった自分のイメージに重なり、本書のクライマックスで主人公はアカデミーを放校になる覚悟で捜査を続ける、と決意します。情況に翻弄されていた主人公が情況に負けずに立ち向かうと決める、ここのカタルシスはすごいです。彼女を圧迫するサスペンスが強烈だからこそ、このカタルシスなのです。若い頃何度も読み返したのもむべなるかな、と今読んでも思います。
 それからしばらくして、ある時期から読み方が変わりました。あまりページ数はないのですが、連続殺人犯ブァッファロウ・ビルに感情移入してた時期がありました。彼は精神を病み、狂った欲望と職人的な執心に突き動かされて誘拐殺人を重ねます。ミステリなのではっきりと全貌が語られることはないのですが、彼の病態が徐々に明らかになるにあたり、何度読んでも恐怖が身体を貫くと同時に抗いがたい魅力を感じるのです。
 彼が人間の皮膚をなめしてボディスーツを作ろうと考える細かい描写、ダーツだのなんだのの形は想像できないのですが、わからないながらも迫力は伝わります。彼の執心が並大抵のものではない、ということが。古い映像に執着しビデオを繰り返し見る描写もいいですね。翻訳刊行時に日本で騒がれた連続殺人犯の青年を思い起こさせます。
 同様にこの時期好きだったのが、クラリスが被害者を思う描写です。自分が指紋を採取し写真を撮った死体の持ち主、美人じゃないけど身体の手入れは欠かさず、生前は白い肌が魅力的だっただろう被害者のことをあれこれ想像するヒロイン。この作品の魅力は、パッパッと短いイメージのフラッシュで心象描写をつなげていくところにあります。クラリスの回想はここに限らず魅力的ですね。
 この時期は僕自身うつ病を患い、読むものや見るものに対してなんだか変な感情移入をしてたんですね。トリイ・ヘイデンの本を繰り返し読んで泣いたり、B・E・エリス『アメリカン・サイコ』を読んで泣いたり、なんだか変なテンションでした。こういう趣味はしばらくして止みましたけど。
 最近お気に入りの部分は、クラリスの上司クロフォードが末期癌の妻を看護するシーンです。とくに終盤の描写は素晴らしい。感情めいた言葉を極力使わずクロフォードの動作描写を通して悲しみを形にして見せていくさまは、作者の技巧がいかんなく発揮されているのにイヤミではありません。きっとここを書くときクロフォードにすごく感情移入してたんだろうな、と伺わせる、実に美しいシーンです。今読むとこのシーンはたった2ページ半だと気づいて驚きます。まったく描写されないクロフォードの妻ベラの人生ですが、ごく短いなかに彼女の夫との幸せな結婚生活を伺わせるあたり、本当に素晴らしい。文章の技巧とはこういう風に生かすものなのだと読む度に思います。
 また、年取って改めて気づくのは、本書にしばしば登場するクラリスの幼少期の記憶、これの重さですね。誰にもこういうことってあると思いますが、僕にもあります。自分が生まれた山間の田舎町の風景が突然フラッシュバックすることとか。ここらへんの描写も胸を締め付けます。


■そして何度読んでも息を呑むのが、主人公が最初の被害者の家に聞き込みに行くシーンです。物語の終盤、クラリスの反撃です。反撃といっても超地味なんです。結果的にはこの地味な捜査が逆転本塁打につながるのですが。
 彼女が自分で決めて始めた一人だけの捜査はオハイオ州の田舎町へと向かうのですが、ここで包み隠さぬアメリカの荒涼とした原風景が描かれます。退屈な田舎町、貧しい庶民の暮らし、田舎から出ずに終わるかもしれない太っちょの少女、少女のささやかな希望、彼女を襲った突然の暴力。圧巻だなあ、といつも思うところです。連続殺人の犯人も被害者も、そしてそれを捜査するFBI候補生も、みんなそれぞれ厳しい人生と苦闘しており、社会の底辺でもがいている。それがよくわかる。
 本書の舞台は80年代の景気後退期にあったアメリカ、とくに地方は工業地帯が空洞化したりと今世紀に続く構造不況の最初の荒波が押し寄せていました。本書が描写する田舎の人々の出口のない感じから、こうした世相を読み取ってしまうのは恣意的すぎるでしょうか? この出口のなさは今や全世界に波及しており、日本も例外ではありません。このざらざらした心象を鮮烈にページに焼き付けている、僕はこの本が好きです。
 そして、絶望的な情況を切り開き運命を変えるのは、主人公の不屈の努力なのです。ここも、いいですね。


■ご存じの通り、映画は大ヒットしてその筋の評価も高く定番の名作となりました。小説も長く読み継がれています。レクター博士の物語は市場のリクエストもあって書き継がれ、次々とまた映画化されました。しかし、続編『ハンニバル』はちょっと残念な出来で、さらに前日譚の『ハンニバル・ライジング』ははっきり言うと失敗作だと思います。
 全世界が期待した『ハンニバル』はたしかにデラックスな小説にできあがっていましたが、僕が好きだった社会の底を這うような人々の描写はなくなりました。作者の興味がこういう人たちに向かなくなったのか、とも思わせます。映画化は僕も好きなリドリー・スコットが職人技できれいにまとめていましたが、『羊たち』のように的確かつ美しい原作の再構成は達成されておらず、エンディングは大きく改変されました。実は原作がちょっとまずかった?という疑惑が露呈したんじゃないかと思います。
 番外編『ハンニバル・ライジング』は、いや面白くないわけじゃないんですが、ことさらエキゾチックな日本人女性キャラを出したせいで、僕たち日本の読者はかなりがっかりしました。該博な知識を持ち、何事にもしっかりした描写をすると思っていたトマス・ハリスが、意外と半端で虚仮威しな描写をすることもある、とわかってしまったのです。ハリスの作品のとりわけ精緻なディテールが好きだったのに、日本文化のこととか原爆に関わる史実や習俗とか、欧米では知る人が少ないことだと案外テキトーなことも書くんだな、と。そう思って見てみると、それまで魅力的だった部分も「もしかすると、知ってる人はシラけるような知ったかぶりなのかもしれない」と思えてきます。残念なことです。
 話はちょっと変わりますが、町山智浩さんがTwitterで僕のことを「彼は病気により、ほとんど生産高がなかったが年収は1300万円以上だった」と書いたとき、同じように残念に思いました。町山さんの書くもの、紹介する映画など大好きなのですが、彼の大変面白い言説の中に、テキトーな部分や又聞きのウソが混じっていることもあるかもしれない、と思えてしまったからです。町山さんはノンフィクション映画の紹介を積極的にしてますが、彼の解説が大胆で面白ければ面白いほど「ホントか」と思ってしまうようになりました。
 ま、そうは言っても相変わらず『レッド・ドラゴン』や『羊たちの沈黙』は大好きだし、町山さんの書くもの、喋ることも大好きですけどね。


■とりとめのない感想文ですみません。引越で散逸してしまった本ですが、先日フリマで見かけて買って読んでしまったんですね。
 最後に『羊たちの沈黙』から僕の好きな名言をご紹介します。
 一つめ。
「人はどのようにして熱望し始めるのだ。人は、毎日見ているものを熱望することから始める」
 ご存じ、レクター博士クラリスに示唆した連続殺人犯を突き止める重要なヒントです。でもこれ、至言だと思います。好きだから見るようになる、んじゃなくて、毎日見てるから好きになる、ってこと。これは強化とか学習といった認知のプロセスにも関わる話だと思うし、もっと卑近な生活の知恵にもなると思います。
 二つめ。
「人は局に恋をしてしまうが、局は恋してくれない」
 これはもうすぐ定年でFBIを退職するクロフォードがオフィスから外を眺めるシーンの地の文です。数年ぶりに読んだのですが、今回は自分が会社を辞めた後だったのでことさらこの1行にハッとしました。会社を辞めるときに大騒ぎをしたのもずいぶん昔に思えます。ははは。
 若いとき好きだった本からまた新たな発見をする、とても幸せな経験でした。「ありがとう」と言いたいですね。
 

物欲が湧かない

 このところ、超久しぶりに物欲が湧いている。サムソンのギャラクシータブが欲しいなあ、と思い始めたのだ。


■ギャラクシータブはiPadの半分ちょいの大きさで、ほぼ同じような性能、さらにカメラがついてて電話もできて、という端末だ。僕は1年くらいiPhoneを使っているけど、今年はめちゃめちゃ老眼が昂進してしまってiPhoneでは辛いことがしばしばだ。もうちょっと大きい字で読める端末が切実に欲しい。
 もう一つ、欲しい理由。ずっと使ってきたdocomoの携帯電話だけど、去年movaからfomaプラダフォン(LG製)に変更した。movaはもうなくなるからポイント使用だけでfomaの端末にしてくれ、とdocomoが頼んできた。だから機種変更してやったんだが、このプラダフォン、死ぬほど使いにくい。
 今どき感圧式タッチパネル(流行のタッチパネルは静電容量式だっつーの)だし、それがまた狙ったところをクリックできない(どうもズレる)、メールとか各機能の階層が深すぎて不自由なタッチパネルを死ぬほどクリックしなければならない、電池がいきなり切れる、などなど不出来なことこのうえない。
 この糞のような端末をなんとか手放したいのでdocomoで乗り換えたい、どうせdocomoではほとんど通話しないのでタブレットでいいや、ということでギャラクシータブが欲しくなったんだけど…。


■先日docomoの店に行ってギャラクシータブの動く展示品を触ってきた。その感想なんだけど、ちょっとがっかりだった。
 展示品の個体差なのかしれないけど、動作がもっさりしている。とても1GHzのプロセッサを積んでるようには思えない。体感的にはiPhone 3GSの方が速い。とくに日本語入力はがっかりだった。キーストロークというかタッチしてから表示されるまでに間があるのを感じる。
 Androido 2,2ってさぞすげーんだろーな、iOS4なんか目じゃないんだろ、くらいに思ってたんだけど、パッと見には良さが全然わからない。インターフェイスがダサい(ボタンが使いにくいところに配置してあるとか、直感的に操作がわからないとか)し、ボテボテ動いてる様はiPadのバッタモンに見えてしまう。期待してたのに残念だ。
 サムソン、今やソニーを凌駕した世界企業だと思ってたんだが、LG製とあんまり変わらん印象だ。ちょっとがっかりだ。がんばってほしい。Androidのバージョンがもう0.1上がって最適化された頃にまた検討しようかな。プラダフォンも一応2年縛りだしなあ。


■今日はヤマダ電機から液晶テレビの配送があった。先月、エコポイント半減前に駆け込みで買ったやつが今日納品になったのだ。2週間かかったぜ。
 6万5千円で売ってた32型、エコポイントで15000円バック(古いテレビの処分3000pt含む)、ヤマダのポイントが2万あったのでお金は3万円しかかからなかった。安いなあ。15年くらい前にソニートリニトロン10インチってやつを買ったけど、もっともっと高かったぞ。って昔話は関係ないか。
 先月半ばに郊外のヤマダ電機に買いに行ったときは、かなり疲れたのだった。駆け込み需要のピークで週末は混んでるだろうと平日夜とかに行ったので店は空いてて選び放題ではあったのだが、何を基準にテレビを選ぶべきなのかさっぱりわからないのだ。
 どのメーカーも黒枠の平べったい機種ばかりで同じに見えるため、並んでる展示品を見ているだけで疲労困憊する。メーカーの違い、スペックの違いもわからない、時々ハードディスクレコーダを内蔵してるのがあって、外見はまったく同じなのに不意に高かったりしてびっくりする。40インチ以上の大画面が並んでいると40インチじゃ小さく思えてきて、自分の家に収まる大きさがどんだけだったかもわからなくなる。楽しい買い物のはずなのに、そのうちに無力感に苛(さいな)まれてくるのだ。
 本来は、テレビとか買いに出かけると楽しいはずだろ。新機種を見るのも面白いし、物欲が盛り上がるのも楽しいし、狙った機種を押さえられたら爽快だし、店員相手に値切り倒したら達成感も相当だ。買い物はめくるめくエンタテインメントのはずだった…。
 それがいま、苦役のような虚しさと徒労感だけがある。僕はほんとにこのテレビどもが欲しいのだろうか?


■よくわからないまま、なんとなくシャープの製品にした。リモコンの反応速度が快適だったから(地デジはアナログと違ってザッピングがパッパッとできないよね)。40インチを買うべきなのかと思ったが、今居間に置いてるのが22インチだということを思い出し、巨大なやつを買うのは思いとどまった。32インチがせいぜいだろう、と特価品をポイント使って買った。精算レジは10分待ちで、配送日を決めて帰る頃はもうぐったりしていた。
 でも実機が届いてつないでみると、なかなか快適で嬉しい。画面が一回り大きくなったことよりも、反応速度が良いことや、画面の明るさが自動調節になってること、HDレコーダとリモコンを共用できることとかが気に入った。手元に商品が届いてやっと物欲が起動した感じだ。物欲、遅すぎ。


■僕はもう初老なのだろう。物欲が弾(はじ)けない。とくに引っ越して部屋が狭くなってからはなるべくモノを買わない増やさないようにしているので、自然と物欲も抑制される。読みたい新刊を買うかどうか悩まねばならないのが辛い(本を買うといずれ近いうちに処分しなければ部屋が狭くなるからね)。
 物欲、所有欲は年を取ると弱ってくる。性欲とかもそうだが。最近とくに思うのが、食欲はあるんだけど食べられる量が減ったこと。今日は飲むぞ!と気合いを入れてもビール1.5リットルを過ぎると頭が痛くなってくるし、肉なら150g過ぎると飽きるし腹がつかえてもう食べられない。野菜はけっこうたくさん入るし好きだけどねえ。
 物欲、所有欲、消費欲は資本主義経済ではとても大切なエンジンだ。高齢者はこうした欲求が小さいので、経済学者や政府や官僚は若者に期待するのだ。若者が恋して、欲望全開になり、乏しい収入を全部使って消費してもらいたいのだ。
 ところが当今の若者はバブル世代と違って可処分所得が少ない(本当か。通説かもだ)し、そのうえ貯蓄性向が高いし(これもホントか)、若者のなんとか離れがいろいろ加速している(これこそ本当か)。「なんとか離れ」がいちいち論じられるのは、高齢者には消費エンジンになってもらえないからだ。どんなにカネがあっても高齢者の消費キャパシティは限られている。欲望が小さいから理性や良識が勝つ。
 バブルの頃、某月26日の朝方、池袋駅前を歩いていると(徹夜で飲んだ翌朝だ)、同じく徹夜で遊んだOLと思しき二人連れが飲み過ぎた腫れぼったい顔で「あー、すっからかん。今月どうしようか」と、それでも爽快そうに話していた。そう、これが期待される若者の消費だ。無軌道で分別も計画性もなく衝動的。このようにカネを使う人がいて始めて、消費サイクルのエンジンが力強く回る。若者は消費エンジンのシリンダーの中で爆発する量=排気量だね、これが大きい。年寄りは排気量が小さく、回転数も低いので運動エネルギーが小さい。おまけにアクセルをちょこっとしか踏まない。若者は信号が青になった瞬間に意味なくベタ踏みするしね。


■若い頃なら、無分別にギャラクシータブだろうが新しいパソコンだろうが買ってしまっていただろう。分別がついちゃったな。考えれば、ギャラクシータブは高価な買い物だって言っても、僕が20〜30代の頃買ってたパソコンよりはずっと安い。あの頃、遅い遅い16ビットのモノクロラップトップがたった19万円だぞ!と喜び勇んで飛びついてた。翌年、カラーになった新機種を買い足したりして。どこにそんなカネがあったんだ。
 今はとてもとても高性能なタブレット端末を「5万円は高いな」などと二の足を踏んだりしている。タブレット端末はBluetoothキーボードを足せばまんまパソコンと言ってもよいくらいの高性能品だ。15年前とかから比べると夢のような魔法のような代物なのに。なんでこんな理性が働くの。なんで物欲で理性が吹っ飛ばされなくなったの。


■コストカットは、結局誰を幸せにしたのだろうか。民主党の目玉イベントだった事業仕分けは、去年は人気を博したけど今年はなんだかよくわからなかった。何度も仕分けてるとこれ以上仕分けることができない局面が必ず到来するし。
 いろんな会社でいろんな部署が目の色を変えてコスト削減に邁進している。で、支払うカネが減ったと安堵した次には、自分とこの売上もがっつり減ったことに気づく。みんなが支出を減らせば収入も減るんだよ。二酸化炭素や窒素酸化物、汚染された排水を減らすのとは意味が違うんだよ。
 僕が働いていた会社は、業界では放漫経営っぽく言われていた。フリーの人たちからは「あそこは緩い」と言われていたと思う。出入りの業者さんからもあまり値切らずに買っていたはずだ。僕が知っている限りはそうだった。
 だけどここ数年はコストカットに次ぐコストカット、原稿料も納入価額も下げ、給与も下げ、正社員も削減した。その結果、おっとりしてて金離れの良い社風が失われ、どこにでもあるちまちました社風になったのかもしれない。
 金離れが良いことは美風だった。ある時点まではそれを目当てに良い人材が集まっていたし、付き合いたい取引先とも言われていた。ヌルい社風だったけど、ある意味確実に取引先を幸せにしていたことは確かだ。そういうことは、今はないだろう。
 世の中のすべての人が、ヌルいお客で、金離れが良くて、宵越しの金は持たねえって感じで、見栄っ張りで、奢るのが好きで、愚かだといいなと思う。それはきっと楽しい世の中だ。ちょっとバカかもしれないけど。賢く生きなければならない現代は、ちょっと辛い世の中だと思う。
 ムーミンに出てくるスナフキンは所有するのが嫌いで、身につけている古着と、ハーモニカ以外は何物も持たないのだという。格好いいよね。でも、それは欠陥だらけの生物であるヒトとしては辛い生き方だと思う。そして現代という時代は我々に、スナフキンのように生きることを徐々に強要しつつあるような気がしている。

 これの黒いのを買ったみたいです。快適です。

隠退ナイスデイ

 早くも12月になってしまった。5月末に退職してから半年が経過したということだ。
 前にも書いたように、僕は雇用保険の失業給付をもらいながら、再就職へのふんぎりがつかずにボヤボヤと毎日を過ごしている。失業給付はあと6カ月分残っている(1カ月認定に行かなかったので)。月額にすると約20万円。まるまる手取りだから、給与20万円の仕事口につくより手取りは多い。失業給付をソデにして再就職するとして、手取り20万円を実現するには額面いくらの仕事につけばいいのか? こんな計算するより就職しないで寝てるほうが手っ取り早い、というのは誰でもわかりますね(笑)。
 我ながら自堕落な態度だと思う。また、せっぱ詰まった事情を抱えて失業しているのに給付が少ない人から僕を見ると腹立たしいだろう(僕は勤続年数が長く前職の給与が高かった、また会社都合退職なので金額・期間ともにフルサイズの給付を受けている)。
 俺は十分恵まれてる、こんな制度の世話になんかならないよ!と給付を叩き返したりすれば格好いいだろうな、と思う。倫理的にはそういう行動が正しいだろう(どういう倫理を選ぶかにもよるが)。だけどカネというシステムの下では、そういう行動は「経済合理性がない」というわけで普通は選択されない。だから僕は毎月、ハローワークに出かけてゆき、認定を受け、「ツェねずみ」が金平糖をコチコチ食べるように(宮沢賢治)給付金を受け取っている。気分は晴れないが懐は潤う。ありがたい。


 経済状況はこんな感じで今のとこ何の問題もない。来年6月に給付は切れるけどね。
 退職してぶらぶらしていることの最大の問題は、やることがないストレスの大きさだ。これは健康面にけっこう大きな影響を及ぼす。
 うすうす予感していたけど、やっぱり「やることがない」という状態は僕のような古い日本人男性にとってはけっこうストレスなのだった。会社という組織形態が、古いタイプの人間を心地よく効率的に働かせる、気持ちよく働かせることで健康にも良い影響がある、というふうに巧妙にデザインされたものだということは、会社を離れないと実感できない。定年退職した男性が隠退生活にうまく軟着陸できないっていうのもやっとわかったよ。
 とくに今年の夏は暑く、毎日暇にしているのが苦しかった。会社に出勤すると社屋は冷房が効いていたんだ、という事実もいまさら再認識した(笑)。
 さすがに秋が来ると、毎日やることがない状態にもだんだん慣れてきた。隠退生活を楽しむコツがやっとわかってきたのだ。


 僕はいま家事をやるのが楽しい。洗濯・掃除(掃除は毎日じゃないけど)、そして料理が楽しい。とくに料理は、原初的な創作衝動を満たしてくれるし、安いコストで美味しい食事を得られるし、素晴らしい。1回目は上手くできるのに2回目はなぜか必ずイマイチになってしまうというのも面白い。たまに「自炊なんてかったりーぜ」と投げ出したくなるが、それでもなんとか続いている。
 それでも気持ちが晴れないときは近所を散歩する。ウォーキングだ。靴ずれしなくなった新しい靴を履いて、落ち葉が舞う桜の並木道を歩く。この時期、きれいに紅葉した桜の落ち葉が川を暗渠にした遊歩道をびっしりと埋め尽くす。まだ枝に残っている紅葉が柔らかな陽射しを浴びてさまざまな暖色にきらめく。風がそれらを舞わせる。溜息が出るほど美しい光景だ。こんなふうに昼間散歩したことがほとんどなかった。土日の昼間は人通りが多い。平日の、歩く人もまばらな遊歩道の光景は奇跡的な美しさだ。ベンチには僕のように正体不明の中年男性が腰掛けて本を読んだりパンを囓ったりしている。ご同輩、お元気で。
 家事をやりながらPodcastTBSラジオの番組を聴く。「キラキラ」の上杉隆町山智浩の回、「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」「文化系トークラジオLife」が好き。とくに最近は「Life」の古いPodcastをダウンロードして聴くのが楽しい。時間はいくらでもあるのですぐに聴くものがなくなるんじゃないかと思ってたけど、実際は家事をやってる1、2時間と歩いてる1時間くらいしかなくて最大でも1日3時間、ネット上の膨大なコンテンツは聴き尽くすことができない。
 本は…あまり読まなくなった。とくに夜は寝転がったらさっさと寝てしまうので。今年はいろんな方からいろんな本をいただいたので感想をブログに書かなきゃ、と思いつつ、それができずにいる。
 あまりに生きてる負荷が低くてストレスが溜まるときは、発表するアテのない原稿を書いて憂さ晴らしをする。いつかブログに載せちゃお、と思っていると気持ちよく筆が進み憂さが晴れる。そしてブログに載せるのも忘れてしまう。


 発表するアテのないテキストを書いていると、自分がムーミンパパになったような気になる。
 ムーミンパパはまだ学齢とおぼしき息子がいるのに、すでに隠退している人だ(正確には妖精だが)。ムーミンの世界には通貨が見当たらないので彼らの活計(たつき)の途(みち)がナニなのかは描写されない。ムーミンの世界は登場人物全員が隠退してるようなものかもしれない。
wikipediaによると、原作者自身が「私のムーミンはノー・カー、ノー・マネー、ノー・ファイト」と言ってるらしい。クルマとカネと争いがない世界、つまり金を稼ぐための仕事はないわけだ。なるほど)
 で、ムーミンパパだが、彼は若い頃は船乗りで冒険家だったが、今はムーミンママとムーミントロールとその他の居候たちと暮らしながら、なにやら回想録を執筆している。担当編集者はいないようだし、おそらく出版のアテがあって(発注されて)書いてるのではなくて、自発的に書いてるのだと思う。
 ずっと前から「ムーミンパパは老後を生きてるようだナ」と思っていたが、今やこれは確信に変わりつつある。彼は、そんなに年を取ってるわけじゃないのだが(かなり晩婚だったとは思うが)、すっかり余生を生きている。何もするアテはない。
 これは何の反映だろうか。
 あくせく働かなくても適当に生きている、という雰囲気は、フィンランドの充実した社会保障制度が背景にあるからか? あるいは、何世紀もの長い長いスパンで衰退していく北欧の国、文化面では先進的だけど人口は小さく成長余力は少なく晩婚・少子・高齢化が慢性的な社会のカリカチュアなのか。


 ところで日本でアニメになった「ムーミン」には主人公のガールフレンドとして「ノンノン」というキャラがいたが、これが原作者には「NoとかNonという否定的な意にとれる」と不評で、後に改名されたという(wikipediaによる)。日本の製作スタッフがまったくこれに気づかなかったのはなぜか。また僕たちが「ノンノン」という名にちょっと愛着を感じ、好意的な印象を持つのはなぜか。同じくWikiによるとキャラ名の元は「監督の妻の愛称」だそうだが、そういう小さな話じゃなくて、たぶん日本語の「安穏(あんのん)」の「穏」に通じる語感から命名された、視聴者も良い感じを受けた、のではないか。集英社が「ノンノ」を創刊したのはムーミンのアニメ放映後だな、意識してたかな。しねーだろか。
(世界にはノーとかノンとかナインとかニェットとかNのつく単語で否定する言葉がいっぱいある。中国語では不是だからNじゃないけど強めの短い単語なのは似ている気がする。日本語には短く強い否定の言葉が見当たらない。西日本には「いらん」「あかん(いけん)」という強い一単語があるが、東日本ではどう言うのかな?)


 散歩していると、路地裏や空き地の隅に野良猫・地域猫・外飼い猫を見かける。誰かから餌をもらっているので呑気で人なつこい野良猫もいて、そういうのに出会うと首の後ろを掻いたりしてやる。
 こいつらは本来なら一日のうち起きてる時間のほとんどを食べ物を求めて活動するはずだが、物好きな篤志家や放任する飼い主のおかげで食の心配をすることなく野天を駆け回り好き勝手にしている。今の僕のようだ。なんて恵まれてるんだ俺。
 だけど野天で生きる猫は寿命が極端に短く、平均で4年だという。食べ物を保証された地域猫ですら、屋内の飼い猫にはとうてい及ばず5年くらいという話がある(屋内の飼い猫は10年以上生きる)。
 公的扶助による餌がなくなったら僕はどうなる/どうするのかな? 野天に対して雨露を凌いでくれる屋根や壁に相当するのは何か。仕事か。だけどどこか会社に所属することは必ずしも屋根にならない、というのは経験した。では何が確かなものなのか。
 そんなことを考えながら書いたんだけど、せっかくなのでこのテキストはエントリにしてみようと思う。


  

靴ズレを防ぐグッズ発見、超快適!

 ご無沙汰です。毎朝NHKの連続ドラマを見ているのですが、最近とみに「これでいいのか、おい?」という展開が多くて困ります。ご覧になっている方、いかがですか。見ていて困りませんか。
 いちばん「すげーなー、おい」と思ったのは、中村玉緒によるナレーションです。「ああ〜!」といった感嘆詞がてんこ盛りの、視聴者の感情を代弁するナレーション。ここは視聴者がハラハラドキドキすべきシーンですよ、と親切にも教えてくれてるんでしょうか。
 これって、ドラマを見る楽しみを視聴者から奪ってると思うんですが、製作者的には無問題なんでしょうか。
 また、毎週NHKの大河ドラマを見ているのですが、次回は龍馬も暗殺されて最終回らしいのですが、これも見ていて「いいのか、おい」と思うことしきり。幕末の若者群像という基本構成は良いし好きなのですが、何かというと誰も彼もがわめいている、叫んでいるシーンばかりで。物語上の葛藤や事件が起きるたびに、全員でぎゃあぎゃあわめいているような…。これでは見ている側がドラマ(葛藤)をじっくり楽しむことができません。
 連続ドラマも大河ドラマも、よくやるのが、登場人物に涙を流させること。誰かが泣いてたら「はい、ここは泣くシーンですよ。視聴者のみなさんも泣いてください」と言われてるようでがっかりします。NHKドラマに限らず日本製のドラマにはこういう演出多いみたいですが、いつからこういう作り方が主流になったんでしょうね?
 僕は脚本上の矛盾とか、彷徨ってた人物たちがばったり出会うご都合主義とかがあまり気にならない性質なのですが、ドラマにどっぷり浸かって楽しみたい心理の流れを寸断されるのは大嫌いです。スムースな心理の流れが断たれると、それまで見えてなかった脚本の矛盾とかドラマの弱さまでが見えてしまうし。
 視聴者を親切に遇するつもりの、視聴者に優しい演出が、結果的にドラマの魅力を大きく損ねている。どうも作り手がドラマを大事にしてないような気がします。難解にしろとは言いませんが、視聴者から考える楽しみを奪ってはいかんと思うのですが。


■本日の主題は「靴ずれ」の悲しみと、その解決法です
 全然関係ない話をしてしまいましたが、本日のお題は「靴ずれ」です。
 去年、通販で買った靴を履いて歩いたら、なんと激しく踵が靴ずれしてしまいました。
 靴ずれはとても痛いです。
 靴ずれというのは恐ろしいことに、靴屋で試し履きしたくらいでは起きるかどうかわかりません。最初はちょっとした、ほんとうにちょっとした抵抗とか擦過感があるだけなのです。それが長い時間歩くことでだんだんと皮膚にストレスを与え、臨界点を越えたところで皮膚が破れて出血します。出血する頃には皮膚だけでなく体組織が深く激しく傷ついています。
 いったん靴ずれが起きると、足に慣れた他の靴を履いたとしてもすでに傷ついた箇所が当たって痛むし、そもそもなんらかの荷重がかかる部位なので靴を履いている間は常に擦れてなかなか治りません。また、靴ずれの痛くてイヤな記憶がトラウマになり、新しい靴を選ぶときも「靴ずれするんじゃないか」という恐怖が脳裏をよぎります。怖くて靴を買えなくなります。


 先般、ずーっと履かないでいた靴を、一大決心して取り出しました。そして踵に当たる部分(アンクルのカップ部分、ヘリのパッドなど)を湯に浸して揉み、紅茶の缶を突っ込んで曲面率がゆるやかになるよう整形し直してみたり。
 なかなか具合よくなりました。だけど、やはり1時間以上歩くとやがて靴ずれになりそうな気がします。踵が擦れて赤くなるとか。


 こうなったらネットで何か探すよ、と検索してみましたら、予防グッズがありました。
 http://www.columbus.co.jp/~onlineshop/fs/shoes-aid.htm(画像はリンクになっています)
 靴の手入れ用品専門メーカー、コロンブスさんの製品「フットソリューション・シューズエイド」です。
 フットソリューションというのはシリーズ名で、靴ずれ・前ずれ・マメなどの対策用品シリーズみたいですね。「シューズエイド」は踵の靴ずれを予防するテープです。
 長さ5センチばかりの粘着テープが12枚入っているだけの品物ですが、これを足入れの踵に当たる部分に貼るだけで、なんと靴ずれしなくなりました。もう全然痛くならないし、靴を履いてることすら意識しなくなります(これまでは歩いてる間中「靴ずれするかもしれない靴を履いてるなー」と靴に意識が行ってたんですね)。
 すごくツルツルしたプラスチックテープに、しっかりした粘着剤がついてます。僕の靴の踵パッドは起毛皮革ですが、しっかり貼れて剥がれる心配もありません。
 これは、良い品です。本当に助かりました。
 気に入ってたけどお蔵入りだった靴を履けるというのは無上の喜びです。
 楽しく歩けるというだけで人生が楽しくなります。ありがとう、コロンブスさん。


 コロンブスの製品にはもう一つオススメがあります。とくにMBTを履いてる方にオススメの、靴底補修材「シューグー」です。
 http://www.columbus.co.jp/~onlineshop/repair/c-shoe-goo.htm
 MBTのソールは薄くて減りやすいうえに、張り替えると高価です。こいつを使ってまめに補修すると良いですよ。MBTのお店でも薦めてるようです。